天然誤読生活

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100匹目の猿という話は作り話であったらしい。

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100匹目の猿という話は作り話であったらしい。

しかし、人間に置き換えると100匹目の人間とでも呼びたい現象は、その昔から今日に至るまで、あらゆる場所で延々と繰り返されている。つまり100匹目の猿の話とは人間の習性を猿に置き換えて話した寓話だったと捉えるべきか。

 100匹目の人間という行動をする我々人間と100匹目の猿という行動を起こさないおサルさんの一番重要な違いは真似する能力なのだろう。なぜなら学ぶとは真似ぶという言葉から生まれた言葉であり、真似する習性の有る無し、つまり学習能力の高低こそが、現在の人間とお猿さんの生活環境の違いを生み出したのだろう、と思えるからだ。

さて、問題は人間の真似する能力は、良いものも悪いものもコピーしてしまうという節操のなさだろう。人間は真似する能力によって文化芸術を創造し宇宙にも飛びだすようになった。しかし同じように真似する、または真似せざるをえない、その習性によって大きな悲劇も繰り返してきた。

その昔真似する対象は家族であり近隣に住む住人のみであった。そうした場合、ある事象に出会った際に真似するべきなのか?または真似しないべきなのか?その判断はさほど難しくはなかったであろう。

しかし現在のようにあらゆる情報が飛び交う時代、つまり真似する対象を選択出来るレベルのボリュームをとうに超えてしまっている場合、どの事象を真似たら良いか?という判断は難しくなる。つまり思考停止に陥ってしまうだろう。

過去に置いては、生存のために有利な事象ををいかにどれだけたくさん真似できるか?つまり「学ぶか?」が大事であったと思う。

しかし前述した通り現在における情報の爆発的な流れの中に置いては、反対に真似してしまう可能性のある対象をよく見極め、不要なものは積極的に近寄らないという姿勢も大事かと思う。

つまり情報に対しても、入ってくる段階で断捨離が必要だという事かと考える。そうでなければ我々は、100匹目の人間ではなく、100匹目の猿になってしまうだろう。

猿の惑星 (創元SF文庫)

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2017/05/16