天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

ネタを創ることこそ書く楽しみかもという話

「自分探しなんて人生じゃない。自分作りこそ人生だ」(バーナード・ショー)という言葉があります。この考え方って文章を書くことにも通じる気がするんですよね。で、僕的には勝手に以下のように脳内変換しているんです。「ネタを探すだけなんて楽しくない。ネタを創ることこそ書く楽しみだ」ちなみにネタを捏造するという意味ではありません(笑)

 

 

いかに日常のちいさな出来事や頭の中のふとした思いつきを文章というネタに出来るか?それがネタを創るということです。そして創る過程こそが書くことの一番の楽しみではないのか?と思うのです。それが「ネタを探すだけなんて楽しくない。ネタを創ることこそ書く楽しみだ」という意味です。

 

で、ネタ化することをなぜ「創る」と表現しているかというと、ネタになったということは、ちいさなその出来事や思いつきに意味が与えられた、ということだからです。
だって文章としてその出来事なり思いつきが記録されたということはそのエピソードが誰かに読まれたり(自分のみも含む)することによって、書き手の脳内から独り歩きして文章単独で読み手に面白いとか退屈な文章だと思われたりするということですよね。
これってまるで世の中に新たな何かが生まれたってことじゃないですか。

 

つまりネタに意味を与え文章化するということはおおげさにいえば「生命が与えられた」ということなんじゃないかな、と。そう考えてみるとエキサイティングですよね、文章を書くってことは。だからネタを探している暇があればその時間でどんどん身の回りのことや頭の中の「まだくだらない」思いつきをネタ化すればいいんじゃないのかなと。

 

そして世の中のある価値観からみた場合の「良い子」や「悪い子」「普通の子」がいるように生まれた文章にも良い文章や悪い文章、毒にも薬にもならない文章も出てくるかと思いますが、それも別に気にする必要もそれほどないんじゃないのかなと。

 

例えば世の中には文章を書くことに関しても天才とか秀才って確かに存在するんですね。それほど頭をウンウンひねらなくともわざわざ文章術を学ばなくとも、なんじゃこりゃ!という傑作やソツのない器用な文章を書く人たちというのがいるんです。そういう人たちって自分の心の部屋の目立つ場所に面白い言葉や高級素材や珍味みたいな
そのままで美味しいネタがたくさん入った引き出しがあってちょっと探すだけで傑作が書けたりするんですね。それをひらめきとかインスピレーションともいうわけですが。

 

だけれども普通の人の心の部屋の引き出しにはキラキラしたひらめきとかインスピレーションなんてものはそうそうあるわけではないんですね。本当はあるのかもしれないけど探し出すのは結構たいへん。だからなかなか書くことが見つからなくて何も書けなくなってしまう。

 

そしていつの間にかささいな出来事やふとした思いつきは世に生まれることも叶わずひっそりと消えていく。それってなんか悲しくないですか。さびしくないですか。そもそも言葉を語ったり、文字として刻むことを許されているのは天才や秀才だけなのでしょうか?僕はそうは思わないんですね。

 

その昔パンクロックという表現形態にたくさんの人たちが自分の(ありふれた)思いを言葉や音として表現した時代がありました。僕は元気がないときに出来るだけ下手くそなパンクロックを聞くことがあるんです(笑)するとなぜか元気が出るんですね、なぜでしょうか?その昔「日本代表パンクロックバンド」というキャッチフレーズをつけていたブルーハーツというバンドがこんな事を歌っていました。

 

世界中に建てられているどんな記念碑なんかより
世界中で定められたどんな記念日なんかより
あなたが生きている今日はどんな意味があるだろう♪

 

この歌詞的に個人が書く文章というものを考えてみると自分が書く文章というのは
どんな凄い文章よりもどれほど美しい言葉よりも自分自身にとっては意味があるんですね。だって自分のネタをネタ化するのは私しかいませんから。そのネタに生命を吹き込む事のできるのは自分しかいないんですね。

 

だから平凡なんだけど何故か忘れらないあの場面や馬鹿馬鹿しいくだらない思いつき、
それをどんどん書いてみようと思うんですよ。別にそれを人に読ませたり発表しなくてもいいと思いますし。自分だけで読むのも構わないと思うんですよ。ネタを創ることこそ書く楽しみだよねと思うので。

 

2017/08/26