速読実践7【風の歌を聴け・1973年のピンボール・羊をめぐる冒険】小説を速読する意味はあるのか?
鉄板ってありますよね。エンタメでいうと、いつ観ても聴いても何度でも楽しめるもの。映画でいうとゴッドファーザー1と2。音楽で言うと60年代後半あたりのBeatlesとRolling Stonesのアルバム。で、小説の鉄板っていうのは自分的には村上春樹の「鼠三部作」なんですよ。
はじめて読んだのは高校生の頃ですが、それから本当に何回も読み返しているんです。で、その時その時でそれなりに面白い。それなりってのがまた良いんですね。この三部作は。爆発的に感動するとかではないんですけどね。なんとなくするすると読み切ってしまう。何度も何度も。
でも、それなりに時間もかかってしまうんですよね。小説を3つも連続で読み切るというのは。
で、速読したらどのくらいの時間で読めるんだろう?速く読んだら面白さは半減するんだろうか?そもそも小説を速読する意味はあるのだろうか?という疑問が浮かんできたので、今回はこの鼠三部作を実際に速読で読んでみました。結果的には・・・
やっぱりそれなりに面白かったです。まずはデータから。
1ページあたり約400文字
約150ページ✕400=60000文字。
これを30分で読みました。テンポは110。
ということで1分間あたり2000文字。
理解度7(10点満点)響き度5(10点満点)本の難易度3(10点満点)
1ページあたり約400文字
約170ページ✕400=68000文字。
これを44分で読みました。テンポは110。
ということで1分間あたり1545文字。
理解度7(10点満点)響き度7(10点満点)本の難易度3(10点満点)
羊をめぐる冒険 上下
1ページあたり約400文字
約440ページ✕400=176000文字。
これを2時間7分(127分)で読みました。テンポは110。
ということで1分間あたり1385文字。
理解度6(10点満点)響き度5(10点満点)本の難易度3(10点満点)
といった感じでした。
3作合計では
3時間17分(197分)。304000文字。1分間あたり1543文字。
何度も読んでいるシリーズなのでストーリーが頭に入っているので、楽しめた、という面も大きいかな。とも思えます。そして、改めて感じたこともいくつか出てきてそれも楽しい読書体験でした。
例えば私が村上春樹の小説の面白さのひとつとして感じている要素に興味深い悪役が出て来るというのがあるんです。このシリーズに関していうと具体的な悪人というのは一人しか出てきません。それは先生につかえる黒服の秘書です。(右翼の先生は話に出てくるだけで、実際には現れないですね)
で、この秘書なんですけど、見た目の描写からもすでに悪の魅力がプンプンするんですよ。
男は相棒が説明してくれた通りの男だった。服装はきちんとしすぎていて、顔は整いすぎていて、指はあまりにもすらりとしすぎていた。鋭い形に切りこんだ瞼とガラス細工みたいにヒヤリとした瞳がなければ〜中略〜誰にも似ていないし、何一つ連想させなかった。
瞳はよく見ると不思議な色をしていた。茶色がかった黒に、ほんの少しだけブルーが入っていて、右と左でその入り方の度合いが違っていた。まるで右と左で別のことを考えているような瞳だった。ひざのうえでかすかに指が動き続けているのが見えた。僕は今にも十本の指が彼の手を離れてこちらに歩み寄ってくるような幻覚に襲われた。奇妙な指だ。
この描写を読むとなぜか、なぜかこの方を連想してしまうのですが私だけでしょうか?
で、この秘書さん。いうことがまたいちいちマトモすぎて怪しいんですよ。
「私はさっき君に凡庸さについて語った」と男が言った。
「しかしそれは君の凡庸さを非難するためのものではない。簡単に言えば世界自体が凡庸であるからこそ、君もまた凡庸なのだ。そう思わないか?」
「わかりませんね」
「世界は凡庸だ。これは間違いない。それでは世界は原初から凡庸であったのか?違う。世界の原初は混沌であって、混沌は凡庸ではない。凡庸化が始まったのは人類が生活と生産手段を分化させてからだ。そしてカール・マルクスはプロレタリアートを設定することによってその凡庸さを固定させた。からこそスターリニズムはマルクシズムに直結するんだ。私はマルクスを肯定するよ。彼は原初の混沌を記憶している数少ない天才の一人だからね。私は同じ意味でドストエフスキーも肯定している。しかし私はマルクシズムを認めない。あれはあまりにも凡庸だ」
どうですか?この徹底的な理屈っぽさ。何度読んでも意味がさっぱりわからないくらい理屈っぽい(笑)
でも、自分が思うに悪って理屈と意志がないと悪にはなれないと思うんですよ。というか、結果的に同じような非道なことをしていたとしても、意志に基づく理屈のない、傍若無人な存在はただのチンピラ、またはただのケダモノ。
で、この黒服の秘書というのは上記のような会話を通して、どうみても立派で魅力的な悪としてのキャラクターになっている。ノルウェイの森の永沢さんの後の姿か?なんてことも想像してしまいますね。
で、もうひとつ悪とチンピラの違いとして気がついたのは、大事な仕事を任せられるかどうか?ということもあると思うんですよ。この作品の中で「僕」という主人公は秘書に大事な仕事を任せます。
それは留守の間の飼い猫の世話です。(実際は運転手が世話をするんですけどね)このあたりのふたりの会話がまた興味深い。
「つまり、僕のいない間に猫がいなくなったり死んだりしていたら、もし羊が見つかったとしてもあなたには何も教えないということです」
「ふーん」と男は言った。「まぁ、よかろう。少々見当はずれではあるけれど、君はアマチュアにしてはなかなかよくやってるよ。メモをとるからゆっくり喋ってくれ」
「肉の脂身はやらないでください。全部吐いてしまいますから。〜中略(具体的な猫の世話に関する僕の說明)〜猫を洗った後はタオルでよく拭いてからブラッシングして、最後にドライヤーをかけてください。そうしないと風邪をひいてしまいますから」
さらさらさらさらさら。「ほかには?」
「そんなところです」
男はメモにとった事項を電話口で読み上げた。きちんとしたメモだった。
「これでいいね」
「結構です」
「それでは」と男は言った。そして電話が切れた。
妙な安心感がありませんか?つまり悪とチンピラの違いを分かつものとして、大事な仕事を任せられるかどうか?というあたりもあるのではないのか??
そんなことを考えていると、信頼と信用の違いみたいなものも考えてみたくなりますね。人間的には信用したくはないけれど、仕事的には信頼できる。または反対に信用はできるけれど信頼はできない・・・・・などなど。
ということで、いつのまにか悪党論の話しになってしまいました。自分でも書いていて意味のわからない展開になってきたのでこのあたりでやめときます。
でも考えてみれば、こんな感じのわけのわからない思いつきが生まれてくるということであれば、小説を速読で大量に読むというのもそれなりに意味はあることなのかもしれませんね。