天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

ビーチ・ボーイズと村上春樹

 

意味がなければスイングはない (文春文庫)

意味がなければスイングはない (文春文庫)

 

 村上春樹の文章がいちばん染みるのは「悲劇」を描いているときだと思う。お涙ちょうだい的な「悲劇」ではない。どうしようもない矛盾やミスマッチ感を抱え込んだ人の悲しみという「悲劇」だ。

そんな「悲劇」を書くときの春樹さんの文章には奇妙なほどの透明感がある。その文章は真冬の小川の水のように透明でキラキラしているけれど、触ってみると意外にそれほど冷たくはない。熱くはないけれど、人肌くらいの温かみはある。今日はそんな特徴がよく出ている一冊を紹介したい。

 この本は音楽について書かれたエッセイを集めた一冊だ。その冒頭の一遍はビーチ・ボーイズ、特にバンドのリーダーであったブライアン・ウィルソンについて書いてある文章だ。

ブライアン・ウィルソンという人は矛盾とミスマッチを抱えている。彼自身が作り上げたビーチ・ボーイズはアメリカのイノセンスを象徴するようなバンドだった。「太陽の光、海、元気な男の子と可愛い女の子の笑顔、サーフィン、オープンカー」彼ら自身がアルバムジャケットでサーフィンを抱えてニコニコしている。

ところがブライアンは海に行くことはなかった。泳げなかったそうだ。だけれどもファンに求められるまま太陽の光に照らされる海を唄いつづけなくてはならなかった。

ビーチ・ボーイズという「お金」を生むバンドのマネージャーはブライアンの父親が務めた。父親は常にブライアンの仕事を監視しコントロールした。父親はかって成功できなかった作曲家であった。ブライアンは素晴らしい楽曲を作り続けた。しかし父親が作曲家としてのブライアンを認めることはずっとなかったという。

時は流れアメリカはヴェトナム戦争の泥沼にはまる。アメリカのイノセンスを象徴していたビーチ・ボーイズは次第に世間から忘れ去られていった。ジミ・ヘンドリックスは言った。「今時、誰がビーチ・ボーイズなんて聴くんだ?」ブライアンの父親はビーチ・ボーイズの「金銭的な価値」はもう失くなったと判断した。だから1969年にブライアンの作った楽曲の権利の一切を売り払ってしまった。そのことに深く傷ついたブライアンはドラッグに溺れることになる。

それからブライアンはビーチ・ボーイズの中で次第に後ろに引き下がるようになった。
他のメンバーたちが主導権をめぐって争った。彼らは実の兄弟であり、従兄弟たちでもある。ビーチ・ボーイズはいつの間にか懐メロバンドになった。そこにさらにドラッグの深みにはまったブライアンのいる場所はもうなくなっていた。

春樹さんはこのエッセイの中でスコット・フィッツジェラルドの言葉を引用している。
「アメリカに第2章はない」
ドラッグに溺れ才能を無駄にしたブライアンに第2章はないかと誰もが思っていた。

しかし華々しくはないがブライアンは静かに第2章を始めていた。時は流れかってのビーチ・ボーイズたちの何人かはもう亡くなっていた。だけど生き残ったブライアンは静かに第2章を唄い始めていた。そのブライアンの様子をワイキキで観た春樹さんの文章がとても良い。まさに透明感ある水のようでありながら人肌くらいの暖かみのある文章だ。引用にしては長いけれど書き写そう。

ワイキキ・シェルのいちばん前の客席で、ますます強くなる雨に打たれながら、ブライアンの近年の名曲「ラブ・アンド・マーシー」を聴いていると、やはり胸が熱くなってくる。
彼はいつもステージのいちばん最後に、ひとりキーボードに向かって、深い悲しみをこめてこれを歌う。美しい曲だ。

彼はこの歌を歌うことによって、死者たちを鎮魂し、彼自身の失われた歳月を静かに弔っているように見える。怒りや、暴力や、破壊や、絶望を、すべてのネガティブな思いを、懸命にどこかに押しやろうとしている。その切実な思いが、我々の心にまっすぐ届いてくる。

ブライアンの身体の動きにはどことなく不自然なものがあるし、ステージの上で彼はほとんど椅子に腰をおろしたままでいる。長く続いた荒廃した生活は、彼の中の何かを確実に破壊してしまったように見える。けっしてその声には、若い頃のあのスイートな張りはない。多くの重要なものが失われてしまったのだ。

しかしそれでも、ブライアンの歌は確実に、聴くものの心を打つ。そこには人生の「第二章」だけが持つ、深い説得性がある。1963年に初めて「サーフィンUSA」を耳にしてから、長い年月が流れた。ブライアンにとっても、僕にとっても、それはずいぶん重みのある歳月だった。あらゆる予想を超えた種類の歳月だった。

そして、とりあえず僕らはここにいる。ワイキキの夜に、やむことのない雨に打たれながら、その空間と時間を共有している。

それは誰がなんと言おうと、素晴らしいことであるように思える。少なくとも我々は生き延びているし、鎮魂すべきものをいくつか、自分たちの中に抱えているのだ。

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2017/09/07