天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

記憶とは思い出すたびに製造されるものらしいという話。

 

なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか (ハヤカワ文庫NF)

なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか (ハヤカワ文庫NF)

 

 

この本はエイリアンに関する本ではなくて「記憶」に関する本です。もともと著者はトラウマなどを研究する心理学者です。その対象としてなぜ少なくない人がなぜ「エイリアンに誘拐された」と思っているのか?そういう記憶が造られたのはなぜなのか?その心理的なメカニズムについて研究した本です。「書き換え」という記憶のエラーに特化した研究といえます。その中で記憶に関する著者の考え方がなるほど、と思ったのでメモしておきます。

・以前は記憶とはコンピュータファイルのようなもので、脳の記憶装置にきちんと補完され、また使いたくなるまでそこに留まっているという考えが主流だった。

 

・しかし現在では、記憶はいろいろな原因でごちゃごちゃになることがあるとわかっている。わたしたちが記憶を呼び覚ますとき、脳が構築作業をするという点だ。脳には、体験の”メモリーチップ”が組み込まれている場所があるわけではなく、体験したことを思い出そうとすると、再構築の作業が始まるのだ。記憶のまったく別々な面を保存している脳の各部分がいっしょに働くので、この再構築から生まれるもの(記憶)は、実際に起きたこととおなじではない。

 

・記憶は、出来事をそのまま写した写真ではなく、記憶を引き出せという合図と、合図を受けるまえから保存されていた体験の断片から作られる。

 
これって実は結構面白い説だと思うんですよね。といいますのは、人間って細胞が数年で全て生まれ変わるから、それ以前とは別人だ、なんてことはよく言われますが、それ以上にすごい話だと思いませんか?

 

我々それぞれ個人が自分を今現在の自分と認識できるのは過去の記憶があるからですよね。自分がどういう人間か?というのはどういう記憶を持っているか?ということによって決定されている。その記憶というのが、パッケージ化されて保存されているのではなくてそのたびごとにばらばらな部品を組み合わせて作られているってのが上記の考え方なわけです。すると「自分」という存在はかくも移ろいやすいものであるか!ってことになりますよね。その移ろいやすい「自己」を哀しいほど弱くてもろい存在と感じるか?それともしなやかに変幻自在可能な希有な存在と感じるか?それは捉え方しだいでしょうね。

 

まぁ実際のところ我々が自己を認識するのは自分からの視点以外にも他者からの視点、
つまり他者がこちらをどう見たか?という記憶の反映も含まれるのでそれなりに大きくぶれることもないんでしょうけどね。それにしたところで記憶というのはやはり摩訶不思議なものではあります。そのあたりの見識をエイリアンというモチーフを使って考えている本書まぁまぁ興味深い一冊ではありました。