天然誤読生活

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【書評】東大教授の「忠臣蔵」講義☆デジタルネイティブ世代は忠臣蔵に涙するか?

 

東大教授の「忠臣蔵」講義 (角川新書)

東大教授の「忠臣蔵」講義 (角川新書)

 

 私はばりばり昭和世代なので、少し前までは毎年年末になるとテレビで忠臣蔵を放送していたのを憶えています。そして少なくない人が毎年忠臣蔵を観て涙していた、ということも知っています。だけど、実をいうと、私は今まで一度も「忠臣蔵」を最初から最後まで観たことがないんですよ。どういう話なのかは知ってはいるんですが、なぜ多くの日本人にこのストーリーが人気があるのか?がイマイチわかっていませんでした。その謎の一端がこの本を読んでわかりました。

その謎に関しては後述するとして、まずこの本がどんな内容なのか?ということを簡単に記しておきます。

 この本は歴史を検証するうえで第一次史料と言われる関係者が書き残した手紙や公式な記録をもとに「忠臣蔵」というお話しのもととなる「赤穂事件」とは実際どんなものだったのか?を解明していくという本になります。

と、書いちゃうとなんか難しい歴史研究の本なのか?という印象を与えそうですが、全体が対話形式で書いてあり、わかりやすく、なおかつ、面白く読める本です。

その面白さという点で私が印象に残った部分をまず、いくつか記しておきます。

吉良上野介足利尊氏の子孫という名家の出であり官位が高い。時の将軍、徳川綱吉とも親戚関係であった。しかし石高はそれほどでもなかった。

名誉職についてはいるんだけど貰っている給料はそれほどでもなかった、というところでしょうか。

吉良上野介は上方(公家)とのつながりが強く彼らとの付き合い方についての正しい知識が豊富だった。そのため裕福な大名は「賄賂」なのか「贈り物」なのか「指導料」なのかを贈り吉良上野介に公家とのうまい付き合い方情報を指導してもらっていた。

吉良上野介コンサルタント的な位置づけだったのかもしれませんね。または上流階級との口利き役というか。

浅野内匠頭は公家の接待役を仰せつかる。通常接待役を任されると誰もが吉良上野介に贈り物(賄賂)をして公家とのうまい付き合いの情報を得る。しかし浅野内匠頭は賄賂なんてとんでもない!と思い、一切金品を送らなければ、おべっかも使わなかった。

浅野内匠頭はまじめな人物だったのでしょうか?融通が効かないというか?理想主義者?ただ、別のページでは浅野内匠頭は周りが辟易するほど、女好きだったという証言も書かれている。

④その結果、わざとなのか、たまたまなのか、吉良上野介は公家との付き合い方に関する最低限の情報も浅野内匠頭には与えなかった。そのため浅野内匠頭はなんらかの局面で失態をおかし「恥」をかかされたらしい。それが浅野内匠頭吉良上野介への襲撃ということにつながっていくらしい。

このあたり、私の誤読と意訳が混じっているので気になる方は本書をお読みください。

⑤吉良邸討ち入り時、赤穂浪士たちの一部はたまたま吉良邸の賄い役に出会い、お菓子を貰い、ほおばりながら吉良上野介を捜索していたらしい。p215

腹が減っていたのか?それとも余裕だったのか?その場面を想像すると面白い。

大石内蔵助は討ち入り後に、吉良上野介とその家来たちの応戦は武士として立派であったと敵を褒め称えているらしい。p246

このあたりの武士道的価値観のようなものがこの事件の全体を覆っていますよね。

⑦事件後、お沙汰が下るまでの間、赤穂浪士たちはいくつかの場所で処分まちをしていたが、大石内蔵助が預けられていた細川邸ではとても優遇されて、食べきれないほどのご馳走が振る舞われたという。p255

ちなみに冷遇されていた場所もあったらしい。つまり、討ち入りに対しての世間の反応は賛否両論だったいうことか。

 

以上のような、へぇ〜というオモシロ話がたくさん書いてありますが、たぶん、この本の著者の言いたいことは最終章に書かれた以下の文章に凝縮されているように思えます。

武士社会の道徳を認めれば、やはり四十六士たちはやはり「義士」でしょう。一方で 、そういう無私の精神は美しいですが、実はどこに向かうかが、大切なんじゃないかとも思わざるをえません。

日本人の中には、自分の信頼する上司や組織、あるいは国家のためには、自分を捨ててでも尽くそうといった「公共的精神」があります。わたしはそれを美しいと思います。

でも、そういう個々人の「公共的精神」 を利用しようとする人もいるのもまた事実です。部下のそういう精神を利用して自分の野望を実現しようとしたり、部下を切り捨てて、自分だけ助かろうとしたりする人がいます。

だから、「忠臣蔵」に素直に感動して、「義士」だと持ち上げればいいというものでもありません。

46人の「公共的精神」を忠義だと賞賛して、それに感動した者の無私の精神を利用して「お国のため」といって、無謀な戦争に命をかけさせて国を滅ぼしかけた時代もあったことを忘れてはいけないと思います。

「公共精神」は大切ですが、それを発揮する時に

「実際にどの方向に向かっているのかを、自分で判断できる理性」が必要ということでしょう。

確かに実際の生活とかニュース、さらには映画や小説の物語の世界の中のお話しだとしても、誰かのために自分を犠牲にしてでも自分が所属する共同体のために尽くすという行動に対して、心から自然に感動してしまいますよね。スケールや状況は様々でしょが。まさにこの忠臣蔵のようなストーリーのような出来事に。

で、今後、そのような感動の正体とは、心理学とか脳科学なんかが、どんなに身も蓋もない感じに、ただの脳の中の電気的反応にすぎないとかって断言したとしても、やはり、それが人間の良さなんだろうな、とは思うんですよ。

だけど、引用した部分で著者が言っているように、それを意識的にか、無意識的にか、利用してやろう、という人もいるんですよね。だから、やっぱりいちばん大事なのは著者が言っているように「実際にどの方向に向かっているのかを、自分で判断できる理性」なんでしょうね。

で、今まで年末に毎年放送していた忠臣蔵なりの「共同体のための自己犠牲」という物語が、そのようなメンタリティをある意味補強していた部分もあるかと思うんですよ。でも、すでに始まっている、ほとんどテレビが見られなくなる時代。情報は各自それぞれが欲しい時に、欲しい情報を手に入れるという時代から生き始めたデジタルネイティブ世代、彼ら彼女らにとって「忠臣蔵」という物語はどう映るんですかね?ちょっと気になります。