天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

大人と子どもの違いを解説する内田樹さんの理屈が会心の一撃すぎる

 

邪悪なものの鎮め方 (文春文庫)

邪悪なものの鎮め方 (文春文庫)

 

 この本を読んで100回くらい『うわー!そーゆー事なのかー!だよな!だよな!』と膝を叩きました。今日はその内のひとつの考え方をご紹介します。

 大人と子供の違いについてです。年齢で区分けする大人と子供の話ではありません。人を評する際に『あの人って大人だよね』または『いい歳して子供だよね』というような使い方をする時の大人と子供の違いです。大人が偉い、子供が未発達という事でもありません。それぞれが社会のために必要とされる役割なのです。内田さんが定義している子供とは以下のような感じです。

年齢や地位にかかわらず、「システム」に対して「被害者・受苦者」のポジションを無意識に先取するものを「子ども」と呼ぶ。「システム」の不都合に出会ったときに、とっさに「責任者出てこい!」という言葉が口に出るタイプの人はその年齢にかかわらず「子ども」である。

"もちろん「子ども」には「子どもの仕事」がある。それは「システム」の不具合を早い段階でチェックして、「ここ、変だよ!」とアラームの声を上げる仕事である。そういう仕事には「子ども」はとても有用である。"

逆に言えばシステムの中に子どもがいなければ、そのシステムはいつまでたっても変化は出来ないという事でもありますね。ということは、いわゆる革命家という人達は常に子供なのかもしれません。革命家というと大げさですが、いわゆる現状を変えていこうとする人たち。

しかし面白い事に成功した革命家はいずれ『大人』と呼ばれる存在に変化せざるを得ないのです。なぜなら『子供』ではシステムを運用することはできないからです。そして以下のような事が起こるわけです。


「父」を斃すために立ち上がった
すべての革命家たちが権力を奪取したあとに、
「父」を名乗って(国葬されるか、死刑になるか、暗殺されるかして)終わるのは、
「父の不在」という、彼ら自身が暴露してしまった真実に「子ども」である彼ら自身が耐えることができなかったからである"


ふむふむ。面白い見方です。もしかしたら大人というのは、大人のふりをした、かっての子どもなのかもしれません。そして自らがかって壊したシステムのあとに自身で作り上げたシステムを守るために暴虐の限りを尽くすことになる。

見方を少しずらすとそれは次の子供たちに俺たちの作ったシステムを壊してもっと良いシステムを作ってくれ!という無言のメッセージでもあるともいえるかもしれません。そのようにして世界は少しずつ良くなってきたのかもしれません。

『大人』というものを『父』システムや世界を『母』と置き換えて考えてみるとエディプス・コンプレックスといわれるオイディプス王の物語やその系譜を次ぐカラマーゾフの兄弟の中の父殺しというものの見方も少しかわってくるかもしれません。

内田さんによれば現代は子供が多くなりすぎてる。もう少し大人の割合が増えたほうがいいということです。だけど僕が思うのは大人のふりをしてたほうがとりあえず楽だから大人の仮面をかぶる子どもが多すぎる、そんな気もしています。子どもであり続けるのも結構疲れるから(笑)

さて話がだいぶ大げさになってきて、なかなか着地点が見つかりません(笑)という事で話を身近なところに持っていきましょう。よく『男の人っていつまでも子供よね』という女性の言葉がありますね。この内田理論でその言葉を改めて考えてみると、ちょっと面白いかもしれませんね。
そのあたりの考察はまたいずれか。
ではでは。


2016/06/20