天然誤読生活

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【書評】おらおらでひとりいぐも☆桃子おばあちゃんの哲学にいいね100回連打した

 

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

 

 第158回芥川賞受賞作のこの小説すごい好きです。超のつく傑作だなぁと思いました。基本的には74歳のおばあちゃん桃子さんの思索と独り言です。で、その思索が地に足の着いた身近さがありながら、スケールがでかくて面白い。なおかつ心を震わせるんです。

その思索の内容は地球46億年の歴史から精神世界、それから一人暮らしの家に現れるネズミのことなど、大から小までいろんなことがごちゃまぜになっています。そして深くて鋭い。で、なんで桃子さんの思索はそんなに広くて深いのかというと・・・

 桃子さんの中には、たくさんの人の意識みたいなものが存在しているようなんです。で、今の自分とは別の誰かの声が聴こえてくる。多重人格というわけではないんですけど、イタコ体質みたいな感じでしょうか?

具体的には亡くなったおばあちゃんや旦那さんの言葉がすぐ近くで聞こえたり、謎の長老が現れたり、または自分自身の過去の姿が見えてきたり、そして、故郷の八角山のふもとの村で生きて死んでいった人たちの姿が見えてきたり、さらには遠い過去にアフリカから旅してきた先祖たちの意識をキャッチしたり。

そんなイタコ体質な桃子さんは自分は皮だと表現しています。

おらの心の内側で誰かがおらに話しかけてくる。東北弁で。それもひとりやふたりではね、大勢の人がいる。おらの思考は、今やその大勢の人がたの会話で成り立っている。それをおらの心の内側で起こっていることで、話し手もおらだし、聞き手もおらなんだが、なんだがおらは皮だ、皮にすぎねど思ってしまう。

皮といえば、先日読んだ森の生活の中でソローは衣服はただの皮にすぎないと書いていました。桃子さんはさらに一歩進んで自分自身が皮にすぎないと言ってます。すごい。

lifeofdij.hatenablog.com

で、その皮の中に収まっているのはなんなのか?それに対する桃子さんの解釈も興味深い。

人の心は一筋縄ではいがねのす。人の心には何層にもわたる層がある。生まれたでの赤ん坊の目で見えている原基おらの層と、後から生きんがために採用したあれこれの層、教えてもらったどいうか、教え込まされたどいうか、こうせねばなんね、ああでねばわがねという常識だのなんだのかんだの、自分で選んだと見せかけて選ばされてしまった世知だのが付与堆積して、分厚く重なった層があるわけで、つまりは地球にあるプレートどいうものはおらのの心にもあるのでがすな。

面白いですね。この引用につづいての部分を読むと、要は人の意識というものは、過去の先祖たちの記憶の積み重ねであるということです。桃子さんだけがその記憶の層につながっているわけでななくて、誰もがその記憶の層につながっている。ということは、亡くなったおばちゃんであったり、旦那さん、そして先祖たちの意識もその記憶の層とつながっている、ということなんですね。だから、つながりを感じやすい体質の桃子さんには彼や彼女たちの声が聴こえる。著者のインタビューを読むと河合隼雄さんの本が好きだと書いてましたので影響があるのかもしれません。

で、桃子さんは心の中に現れるさまざまな人たちの声を聞きながら、彼女なりの答えを見つけようと74歳の今も前進し続けるんですね。その求めている答えとはつきつめて考えると、身を引き裂かれるような思いの悲しみに出会ってまで、自分は(人は)生きている意味があるのか?という疑問に対する答えです。前提として桃子さんの中では意味さえ見つかればどんなことでも耐えられるという考えを持っています。だから桃子さんは探し続けます。そして物語の終盤において答えをみつけます。それを読んで、私はどうにも涙が止まらなくなりました。

インタビューで作者はこの自作をおばあちゃんの哲学と表現していました。いやいや、これはおばあちゃんだけの哲学では済まないですと思います。いろんな世代の人に読んでもらいたい作品です。映画化したり、オーディオブックにしたりして、たくさんの人に桃子さんの哲学を知ってもらいです。その哲学が正しいか、誤りか、なんてことは二の次なんですね。というか、哲学ってたぶん自分で考えた哲学が自分にとっての良い哲学となるんでしょうね。で、桃子さんのの哲学は読む人が自分の哲学を創り上げる時にすごく参考になんるんじゃないかと思うんですよ。私はすごく参考になりました。こんなに毎日をもっと面白がろう!と思わせるナイスな哲学はなかなかないと思うんですよね