天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

食欲と読書欲と残す勇気

空腹は世界中で最上の調味料である セルバンテス 

食べ物の最高の調味料は飢えである。飲み物にとっては乾きである。キケロ 

 というような言葉がありますけど、これって読書も同じかもなぁという話です。心や頭が何かに飢えているときや、もっとマイルドな表現でいうと、頭が空っぽになっている時、いちばん面白く本を読めるんじゃないのかなぁと。つまり読書の最高の調味料は空っぽの頭であると。

 今朝、森の生活の続きを読んでいました。昨晩、途中でキツイなぁ、ちょっと理解できないなぁという文章が続いてストップしていた場所からです。ところが、今朝はスイスイと頭に入ってきて、ソローさんの持って回った言い回しが頭の中にどんどん入ってくるんですね。つまり面白い。昨晩はぜんぜん面白く感じなかった場所なのに・・・。

昨晩と今朝で違うのはよく眠ったあと、ということと、途中までの感想をブログとして書いてアウトプットしたということなんじゃないかと思います。

lifeofdij.hatenablog.com

食事で例えると食べたものをエネルギーに変換して活動して、残りを排泄して腹の中を空っぽにした状態。この状態がいちばん食べ物が美味しく感じる時。これを頭の中の状態に置き換えて考えます。ブログを書いて文章としてアウトプットして、残りを睡眠中の記憶の整理作用によって、頭の中を空っぽにした。だから今朝は頭が空っぽの整理された状態だった。その結果、昨晩面白くないと感じた部分も、一転して面白く(美味しく)読めたのではないのかな、と。つまり、面白く本を読む、そして本に書いてある情報を効率よく摂取しようとするなら、まず頭を空っぽにすればいい、と。

ちなみに村上龍が読書についてこんなことを書いてます。

lifeofdij.hatenablog.com

無理して本を読むよりも、情報と知識に飢えるような状況に自分を置くことのほうが重要だと思う。 

で、話は変わりますけど、 昨日久々にカップラーメンを食べたんですよ。もともと好きなんですが健康にはよくなさそうなので控えていたんです。でも、急に食べたくなってついつい・・・。

で、食べてみるとやっぱり美味いんですよね。よく出来てる。大企業が大金をかけて旨さを研究してるんだから当然でしょうけど。

でも、食べてる最中に一瞬、あっ、もういいかな?って感じる瞬間があったんですよ。満腹感とまではいかないんですけど、身体がもうこのあたりでエネルギー補給はいいんじゃないの?みたいなメッセージを出してるような気がした。

で、箸を置いたわけです。今までも(カップ麺に限らないですけど)何かを食べてる最中に、そのようなサインを感じることもあった。

だけど、はいやいや残したらもったいないし、残せばゴミにもなるし、食べきろよ、と指令を出すんですね。まぁはそんなまともな指令ではなくて、美味いだろう、この辛味、このとろけるような甘み、もったいないお化けが出るぞ、みたいな感じでオブラートに包んでくるんですけどね。

で、いつもはその指令に負けてまた食べ始めるんですけど、昨晩は止めてみました。もったいなけけど、半分残しました。頭の指令よりも身体のサインを優先しました。

その食べ物は身体が欲しがっているのか?それとも頭が欲しがっているのか?という言葉も思い出したからです。そのあたりの感覚はこの本で岡田斗司夫さんも書いてますね。

いつまでもデブと思うなよ・電子版プラス

いつまでもデブと思うなよ・電子版プラス

 

柿の種にポテチ、チョコレートに歌舞伎揚、そしてコーラ。塩辛いものを食べたら、口の中をリフレッシュするためにチョコを食べる。

〜中略〜

こういうものを食べるときって、お腹がすいているわけじゃない。強いて言えば何か塩気のきいたパリパリしたものを噛み砕いて飲み込む。そのときの、舌や歯ぐきやノドに対する刺激が欲しいでけの気がする。噛んで味わって飲み込む。飲み込んだ瞬間、またすぐ、次が欲しくなる。まるで中毒症状だ。 

身体が必要としている以上の、何かを頭は求めてしまう。その結果が良ければ問題ないんですが、実際はよくない結果になることのほうが多いですよね。だから、食べ物にしろ、今回のテーマである読書という情報収集と娯楽を組み合わた行為にしろ、食べたり、飲んだり、そして読んだり、学んだりするのも、ある程度コントロールする必要があるんだろうなぁと思うんですよ。

読書の場合で言うと、まず読んだらそれをまずアウトプットするべきだろうと。それは別にビジネス上で役立てなければとか、人間関係を改善するためにとか、そんなことだけに限らず、単に読んで自分の生き方や考え方にあてはめて考えたりだとか、印象に残った場所を誰かに話すだとか、それとも単に、いったんページをめくる手を止めて、泣いたり、笑ったりする(これもアウトプットだと思う)。

で、そのようにして取り込んだものをいったん外に出してからまたページをめくる。急がない、あせらない読書。効率は悪いかもしれないけど、それでもいいと思う。岡田さんはこんなことも書いています。

私はポテトチップスが食べたくなったら遠慮なんかしない。カロリーなど気にせず、できるだけ美味しそうなポテチを買ってくる。で、その中から最高にカタチも色も良くて、大きくてバリバリで分厚くて、塩がたっぷりついているのを5枚、選ぶ。時間をかけて、悩みに悩んで最高の5枚を選ぶわけだ。選んだら、残りを台所に持っていって、流しでジャー!と水道水をかけてしまう。

最後の水道水のくだりはちょっと・・・と思ってしまいますが、それでも、この感覚も読書に対しても使えると思うんですよね。本ってどうしてもついつい一冊まるごと最初から最後まで読まないことには、それについて語ってはいけない、なんて思ってしまいます。だけど、あくまで、大事なのは自分がその本から何を感じるか、何を得るか?が大事なわけで、パラパラとめくって刺さる一文があったら、その時点で、その一文について、考えたり、行動にいかしたり、ブログに書き記してもいいんじゃないのかと。

つまりエネルギーに変換して、なんらかのアクション(前述したとおりそれは泣いたり笑ったりといったものでも全然有りということで) を起こす。で、また、自然に腹が減るように、心や頭が何かを欲しがりだしたら、また次のページをめくったり、または全然違う本を開いてみたり・・・。ということで、本を読むにあたっても残す勇気は必要かもなぁなんて今朝思いました。