天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

文春砲が大好きなワタシに欠けているのは何か?を水野敬也氏のウケる日記に気づかされた。

headlines.yahoo.co.jp

 今回の小室さんの引退騒動に関してはいろいろ考えてしまいました。いろんな意味で清濁合わせて出来上がっている世の中であるのはわかるのですが、さすがに、今回は心情的にキツいなぁというのが本音です。(globeのファースト・アルバムでのKEIKOさんの歌声が大好きでした)

で、今度は文春を叩く、という形になっているような気がしますが、それってただ方向がひっくり返っただけで同じことのような気がしないでもないです。で、文春砲っていう本があったのを思い出したの読んでみました。

仕事のプロフェッショナルの人の話を教えてもらえる本というのは、たいてい面白いですが、この本もやはり面白かったです。ベッキーさん、甘利さん、元少年A、ショーンK、舛添さんらの報道のときの取材の様子が緊迫感あふれるドキュメンタリーとして書いてあったり、これからの週刊誌のマネタイズを含む方向性の話などなど、興味深く読める話がたくさん書いてありました。

しかし、どこかで私が期待していた、文春編集長からの、スキャンダルを報道する絶対的な必然性と言うか、門外漢である私でさえ、ねじ伏せてしまえるようなゴシップ報道に対しての強い哲学みたいなものは私は読み取れませんでした。

ただ、いえるのはこのような記事に反応して、何かを考えたり、このような文章を書くということ自体、私自身もスキャンダルとかゴシップが大好きなんでしょうね。そのような表立って言えない欲望を満たすのが文春砲なんでしょうね。で、こんな記事があったのを思い出しました。

beinspiredglobal.com

アメリカでは芸能ニュースが『Yahoo!』のトップで報道されていた割合は、わずか3%、イギリスは12%。

それに対し、なんと日本では35%もの割合で芸能ニュースが取り上げられていたのだ。
芸能人の熱愛や暴露話……。
そんなニュースが日本では世界のニュースの倍、自国のニュースとほぼ同じ回数で、トップページに登場していた。

やはり我々、日本人はスキャンダルを含む芸能ニュースが大好きなのでしょうか?では、そもそもスキャンダルを喜ぶとはどんな心理なのか?橘玲さんのこの本の中の以下の文章をおもいだしました。

不愉快なことには理由がある (集英社文庫)

不愉快なことには理由がある (集英社文庫)

 

私たちは無意識のうちに、悪が破壊した秩序を正義が回復する、という勧善懲悪を思い描きます。

〜中略〜

罪はなんらかの、正義によって精算されなければなりません。この感情はとりわけ、法治国家がうまく処理できないような事件が起きたときに爆発します。いじめはその典型で、警察や行政がひとびとの納得する対処法を掲示出来ないからこそ私的制裁が正当化されるのです。

ここでやっかいなのは、個人間のすべての紛争を国家が解決出来ない以上、私的制裁は共同体の維持に必要不可欠だということです。右の頬を殴られたら左の頬を差し出すのは立派ですが、そんなひとばかりになれば、好き勝手に相手を殴りつける無法者(フリーライダー)が跋扈するだけです。

ネットメディアの世界では、もっともアクセスを稼ぐ記事が有名人のゴシップ(噂話)と正義の話だというのはよく知られています。家族の生活保護の受給が問題になったお笑い芸人が典型ですが「こんな不正許せない」という話に読者はものすごく敏感です。

〜中略〜

マイケル・サンデルの「白熱教室」以来、正義についての議論が盛んです。しかし、正義の本質がエンタテインメント(娯楽)だということを指摘するひとはあまりいません。

つまり、ヤフーニュースの記事と橘玲さんの話を合わせて考えてみると、日本人というのは、ゴシップを提供する芸能人なり有名人を叩く、また叩かれている様子をみることを娯楽として楽しむ傾向、つまり共同体の秩序を保とうとする意識が強い、ということなんでしょうか???

そしてそれは変えることは不可能なのでしょうか?

また、そもそも変える必要はあるのか?

そしてゴシップ報道の存在しない社会というのはユートピアなのか?

それともディストピアなのか?今のところ、よくわかりません。

水野敬也さんの昨年末のブログがちょっとヒントになりそうです。 

ameblo.jp

すべての問題は、僕たちの「美しさ」を求める心が足りていないことにあるかもしれないのです。

 なるほどね~、と思ってしまいました。また引き続き考えていきたいです。

lifeofdij.hatenablog.com