天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

『翼の折れた(元)天使が再び空を飛ぶ方法は仁王像が教えてくれる(かもしれない)という話』

 

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

 

怠けていることは喜びかもしれないが重苦しい状態である。

幸せになるためには何かをしていなくてはならない。

マハトマ・ガンディー

 失敗の多い生涯を送ってまいりました。私にはもう新しい物事に挑戦するということがどういうことなのか、もう、皆目、見当も、つかないのです・・・・・と・・・。

 太宰治をパクってみましたが、そんな気分に陥ることもなきにしもあらずですね、たまあにですが。だけれども・・・。

 この歳になるまで、たくさん失敗をしてきたうえで、やっと気がついた、というか体感できたことは、実際に失敗して転んだ痛さや、笑われる恥ずかしさよりも、その前の痛いんじゃないのか?恥ずかしいんじゃないのか?と思っている時の怖さみたいなもののほうが、痛い!という事実。

注射そのものよりも、自分の番を待って前の人の痛そうな顔を見ているときのほうが、よほど痛いってのと同じような現象。

そして飛び込み台の上で、躊躇しているような、じわりじわりと来る、いやあな、その痛みの正体とは何なのか?

それはもしかしたら可能性という名前の翼をガリガリと傷つけている痛みなのかも。そして痛みが長いこと続くと本当に翼が折れてしまう。ポキっと。

「飛べない豚はただの豚」と、どこかの豚さんが言っていましたが、逆に考えると、飛べない状態のヒトというのは「翼が折れた(元)天使」なのかも。
(自分の場合、見た目が天使というよりも悪魔の舎弟風ですが 笑)

そんなことを考えていて思い出したのが、夏目漱石夢十夜という不思議な短編集の中の話のひとつ。仁王像を掘っている運慶という彫刻家の話。あまりに見事な彫刻を彫る運慶を見ていた男が語るんですね。
「あれは木片を削って仁王像を形つくっているんじゃない。もともと木片の中に仁王像が存在していて、まわりの余計な部分を削ぎ落としているだけだ」

この言葉が自分的には最近よく考える「失敗とはなにか?」と結びつきました。つまり、失敗とは、仁王像を彫り出すためにどうしても削らなくてはならない、または、言い換えると、通過しなくてはならない過程なのではないのかと。そして削って削って、つまり失敗して失敗してその結果現れてくるものこそ本物の翼なのではないのかと。

その結果その翼が自分をどこへ飛ばすことになるのか、それは全くわからない、というか予想もつかないわけですが、それもまた良いんじゃないか、なぜならまた飛べたんだから、と思える日がやってくるはずだと、削り続けていれば。

ということで、ガリガリと翼を削ってお茶を濁すんじゃなくて目の前の問題や課題をゴリゴリと削っていこうって思う。さすればいつの日か失敗の多い生涯そのものを誇れる日もやってくるだろう、なんて事を期待しているここ数日です。

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2017/02/23