天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

自分で笑えるくらいにいい人演じてみれば?と提案する笑えるエッセイ集

 

「自分は十も愛しているのだから、相手はそれに利息をつけて十二の愛を返して欲しい。それがみんなの気持ちなんです。銀行だって利息がつかないこの時代に、なんで愛に利息がつきますか(笑)」
瀬戸内寂聴(グッとくる「はげまし」言葉 (文春文庫) 齋藤 孝より)

読んでてハッとしたので書き写してみました。そうなんですよね。とかく僕たちが愚痴る事の半分くらいは自分の行いに対しての見返りが少ない事。利息の付いたお返しが返ってこない事。こんなにお前のことを考えて、やってやってるのに・・・こんなにがんばって努力したというのに・・・・。

 だけど僕たちはいつも裏切られるし、おそらくどこかで裏切ってきた。それでも善意や愛を誰かへ預けたら金融機関のようにお返しが戻ってくる事を期待している。10愛したら12愛してくれるはずだ・・・・・。

だけど実際の生活の中でそんな確実な話なんてない。元本保証された思いや行為なんて存在しない。マイナス金利や元本割れみたいな出来事なんて日常茶飯事ですしね。それでもいいんだろうって近頃は思ったりもするんですよね。


松尾スズキさんの本にこんな言葉がありました。

【現代、野蛮人入門 (角川SSC新書) 新書 – /松尾 スズキ】

偽善というのは、いい人を演じる行為です・・・中略・・・演じるということは「いい人間」を俯瞰で見るということです。自分を本気でいい人だと信じ、「いい」の中にその身を放り込んでしまうと、それが本当にいいことなのか、逆に見えなくなります。ヒットラーだって、自分のことを悪い人だとは、1ミリも思ってなかったわけです。「ああ、今日も完璧にいいい人を演じきった!」なんていいながら晩酌できるくらいの遊び心を持つほうが、健康的だと思うし、第一笑えます。

この本の中で松尾さんは「偽善でもいいんじゃない?」とゆるく書いています。松尾さんは目の前で老人が歩いてると、よろけてくれないかなと不埒なことかんがえてしまうそうです。もしも老人が倒れてくれたらさささっとと機敏な動きで介抱してあげて病院に連れて行く。特に礼も受けずにさささっと去っていく。その後1人で悦に入る。真夏に炭酸飲料を飲んだような爽快感を感じる。あー今日もいいことしたなー。馬鹿みたいな話だと思うかもしませんが、皆さん思い当たる節はありませんか(笑)

寂聴さんの話に戻るとはなから利息なんて期待しないほうがいいんだろうなと。無償の愛なんてかっこいい事ではないですよ。実は10愛した時点で100くらい喜びをもらったんじゃないのか?あなたが懸命に10頑張った時点で100くらいあなたは輝いていたんじゃないですか?全然感謝してくんないんだよな?利息どころか元金さえ戻ってこないじゃん。とがっがりするんじゃなくて。

それでもまた何かせずにいられない。なーんて思わせてくれる誰かがもしも近くにいて
何かをしてやれる時間が残されているのならそれは幸せなことのなのかもしれません。

自分をまるでドン・キホーテみたいだなあと楽しみながら、観察しながら、たまに赦してやりながら、週に一回くらいはビールを飲んで振り返る。つくづく俺って投資のセンスまるでないよなあと。。。反省なのか、自慢話なのか、くっちゃべってみる。
そんなかんじも悪くはないよなあと思ったりする今日この頃です。