天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

ボールを投げる側に回るのもありかなぁとも思ったりした胸締め付け感満載の小説

 

さくら (小学館文庫)

さくら (小学館文庫)

 

 西加奈子さんの「さくら」を読んだ。数年ぶりの再読である。Amazonレビューで酷評されているが私は良い小説だと思う。クライマックスで、おそらく筆者の思惑を超えて疾走してしまったであろう、登場人物たちの生き生きとした感じは読んでて胸が締め付けられる。


以下 ネタバレあります。

さて今回私が印象に残った言葉は「悪送球」という言葉である。これは順風満帆であった主人公の兄「一(ハジメ)」が、悲劇的な交通事故の後に、語った言葉の中の一部である。

以前は神様が打ちやすいボールを投げてくれていたから、自分はホームランを打つ事が出来た。しかし今は悪送球ばかりだ。もう打ち返すことはできない」(通常、悪送球とは塁上にいる走者に対して使う言葉だか、ここでは打席に立つバッターに投げるという意味で使われている)

おそらく誰もがそんなに気分になる事はあるかと思うし、世の中には私では想像もつかないような暴投を打席で待ち構えている人もいると思う。だから彼のこの発言やその後の行動に対してどうこうは言えない。そのあたりを書いているこの作品は残酷な物語であるのは間違いない。

しかし筆者はその兄「ハジメ」に対するキャラクターを登場させている。主人公の妹「ミキ」に恋する男前の女の子「カオルさん」だ。彼女は生れながら、かなり大変なボールを打席で待ち受けているとのではないかと思われるけれど、ストーリーの中で筆者は彼女にとても勇気のある行動をとらせる事によって「ハジメ」の運命に対しての考えを間接的に書いているような気がする。

そして残された家族は再び訪れた、家族をまた失うのでは?という危機、つまり神様の悪送球に対して、精いっぱいのジタバタをする事により、家族は再び絆を取り戻す。そこには家族を守ろうとする力を取り戻した父親と、その父の姿を見て惚れ直した母、そしてそんなふたりを見て幸福感を取り戻す次男と長女、そして大事な家族である犬のさくらがいた。

思ったのは、誰もが生きていて打席に立っていれば、良いボールもとんでもないボールも、何の理由もなく投げられてきて、それを打ち返したり、空振りしたり、見送ったりするわけだ。それが生きてるって事だ、たぶん。だけど「カオルさん」や蘇った「父」のように、投げられてくるボールを待っていだけではなく、自分でボールを投げるってのもありだよなあ、ということも思った。そしてそれを打ち返そうと待っているのは
自分だけではなく、思いもかけない誰かかもしれしれない。