天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

夢にも鮮度と賞味期限があるのかもという話

 

常識にとらわれない100の講義 (だいわ文庫)

常識にとらわれない100の講義 (だいわ文庫)

 

 こんな言葉が書かれていた。

なんとなく、そうなれば良いな、という程度のことを「夢」とか「希望」という人も沢山いる。たとえば、小説を読んでその主人公が恋人に出会って幸せそうだと、自分もそんなふうになれたら良いな、と思う。これは「羨ましい」と思うことであって、それ自体は健全だし、人を羨むことは、目標を見つけたり、自分の人生を設計する基本的な材料となる。p28

 

 羨ましいとか、良いなあと思う、いわゆる妄想って、夢の材料という見方も出来るんですね。発想が面白いなあ、やっぱり森さんは天才。という事で思いついた事をつらつらと。

 まず、考えてみれば実現した夢も叶わなかった夢もはじめは、「羨ましいなあ」「あんなふうになりたいなあ」という、フワフワした妄想から始まったものなんだろうなあ。そういう意味で、確かに妄想って、夢の材料ということになるわけだ。

話を少し膨らませてみる。例えば「実現した夢」を出来上がった料理だとしてみよう。
料理を作るためには、元となる食材が絶対に必要だ。その食材に知識や情報といったスパイスを加えてじっくりと時間をかけて調理しなければならない。やる気や勇気といった熱を使って煮たり焼いたりする事も必要だろう。

その結果、ただの妄想でしかなかった思いつきが現実世界で実態を持った美味しい料理に変身する。それが実現した夢という事になるだろう。

だが気をつけなければいけない事もある。食材って、いつまでも使わずに、保存だけしていても腐ってしまう。こころの中に腐った食材があふれていたら大変だ。美味しい料理を作るどころか、おかしな化学反応を起こして、奇妙で危険な「なにもの」かが生まれてくるかもしれない。もしかしたら思いもよらない「邪念」という「怪物」が生まれるかもしれない。

妄想を抱くということは必要な事だ。材料がなければ何も作り上げる事はできない。しかし冷蔵庫の容量に限界があるように、心の中の貯蔵庫にも限界はあるはずだ。だから時に思い切って処分する勇気も必要だろう。たまには心の中の妄想を全部捨てちゃてもいい。

いつまでも古い妄想がいっぱいいっぱいではこころの中に新鮮な妄想は入ってこないはずだ。食材は鮮度が大切だ。妄想にも鮮度があるのかもしれない。昔の妄想は思い切って処分して今の妄想を仕入れよう。今自分が本当に食べたいと思っている料理を作ろう。そして美味しく料理した現実をパクパクと美味しく食べようと思いました。


2016/07/05