天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

あの2001年宇宙への旅さえ楽しめるようになる映画解説の決定版的な一冊

 

 映画の絶対的な名作ってありますよね。例えば「ベン・ハー」や「風と共に去りぬ」とか。このあたりって誰がいつ観ても面白いし、いろいろと考えさせてくれる映画ですね。

ところが同じように名作として語り継がれている「2001年宇宙の旅」とか「地獄の黙示録」や「タクシードライバー」あたりになるとどうでしょうか?難しいというか意味不明な部分が多くて、またはどうしてそんなに人の負の側面ばかり強調するのか?みたいなところもあり、正直言って「これって本当に名作と言えるのか?はっきり言って面白くないんじゃないのか?」と感じてしまう人も多いのではないでしょうか?

そんなふうに思いつつも実は自分の「映画の見方」がイマイチなのではないのか?実は上記のような意味不明な作品の凄さを知る秘密があるのではないのか?と思っている人にはこの本がオススメです。

 著者の町山智浩さんは作品の直接的には現れない作者の意図や作品が生まれた背景を知ることにより映画はもっと楽しくなると主張します。その意図や背景を探りながら上記にあげた「難しい」映画の楽しみ方をこの本で書いてくれています。

例えば映画全体、特にハリウッド映画産業のおおまかな流れの中で個別の作品の位置づけを捉えるという考え方がなるほどと思わせてくれます。映画はまず純粋な娯楽として「見世物」として始まり、徐々に製作者の主張を鮮明にしていく「作品」となり、さらに時代が進みいかに誰もが消費しやすい(楽しめる)「製品」へと変化していったということです。

で、この本で取り上げられている「2001年宇宙の旅」であるとか「地獄の黙示録」「タクシードライバー」「明日に向かって撃て」「ロッキー」といったあたりの作品は主に1970年代の製作者の主張が色濃く反映した「作品」としての映画が主流だった時代の映画なんですね。

つまり観る側が理解できるように噛み砕いた内容というよりも、より製作者側の表現したいことを明確に表現できるか?に重きが置かれていたわけです。だから面白さを理解するのに負荷がかかるのは当然なんですね。わかりにくくて、考えつつ観なければわからない、ということになります。

このあたりというのは文章を書くことについて考えるときによく出てくる「読み手ファースト」か「書き手ファースト」か?という議論にも通じますね。で、普通に考えると映画というのはお金を払って観る商品でありますから「観客ファースト」が正しいのではないのか?製作者側の独りよがりでは駄目なのではないか?と思いがちですが、実はそうでもないと思うんですね。

最大公約数を狙った「製品」はそれなりに楽しめますがやっぱり観て楽しんでそれで完了という感じ、対して製作者の意図を深掘りした「作品」というのはわからなさが心にひっかかっていつまでも忘れらない映画となっていくような気がします。

例えば「2001年宇宙の旅」といえば「ツァラトストラはかく語りき」が鳴り響く場面が印象的ですが、やはりこの作品というのはニーチェの思想と重ね合わせて観てみるとより面白かったりするんですね。

それから「タクシードライバー」の監督であるマーディンスコセッシはコンプレックスの塊のような人物であり、その彼の鬱屈した感情こそがタクシードライバーの世界であることなんかがこの本で書かれています。
印象的な記述を引用してみます。


「スコセッシが中国の大学で映画の講義をしたとき、一人の生徒が「僕は孤独で気が狂いそうです。どうしたらいいんでしょうか?」と相談したという。「君の孤独感を表現してみなさい」とアドバイスされた生徒は自分のことを映画にし、評価を得て、再びスコセッシに邂逅した。「表現したけど、寂しさは消えません」スコセッシは哀しげにこう答えたという。「・・・実は僕だって、そうなんだよ」


で、そのスコセッシの親友でもあるスピルバーグの「未知との遭遇」では家族を捨ててUFOに乗る男が出てきます。スピルバーグという人の父親というのは家族を捨てて出ていった男であったそうです。

そして後に作られた「ET」では、父親に出て行かれた少年が主人公ですね。そしてラストで少年はETに一緒に宇宙へ行かないか?と誘われます。で、その誘いに対しての少年の選択というのがスピルバーグ自身の最も言いたいことだったのではないか?というような事も書いてあります。読み物としてもとても面白い一冊でぜひオススメの一冊です。


2017/09/04