天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

この話を誰かにつなげるために要約してみた

 

つながり 社会的ネットワークの驚くべき力

つながり 社会的ネットワークの驚くべき力

 

 

<私たちはみんなつながっている>

ある人間は金持ちになったり、またある人間は貧困にあえいでいたりする、ある人間は犯罪を犯し、またある人間は他者のために一生を尽くしたりする。この違いを考えるため、ふたつの原因説が議論されてきた。つまり個人の資質に原因があるのか?または社会的要因に原因があるのか?という議論だ。しかし著者はもうひとつ大きな要因があると主張する、それが人間同士のつながり、『社会的ネットワーク』の影響力だ。

 

 著者は末期患者と関わる事の多い医師だ。その経験のなかで実感する。それは家族間、友人間の間の健康状態はつながっているのではないかということだ。例えば妻が病気になったり死んだりすれば、夫の死のリスクは確実に高まるといった事だ。

 そしてこのつながりの影響力は狭い家族間や友人たちの間だけで止まらない。それぞれ個人の行動は知り合いに影響を与え、今度は知り合いの知り合いにも影響を与えてしまう。その結果私たちは自分の全く知らない人にさえ何らかの影響を与えているし、影響を受けている。

 例えば友人の友人の友人の体重が増えると自分の体重も増える。自分がタバコをやめると友人の友人の友人がタバコをやめると。そう考えてみると我々の日常の行動というのは自らの自由意志によって決定していると思っていても、実は知らないどこかの誰かの影響を受けているのかもしれない。それは少し寂しい気持ちにもなる。

 しかし著者は明るい面も主張する。社会的ネットワークの力が、仮設通り大きいとするのなら、考えようによってはひとりではとうてい不可能な善き事も、社会的ネットワークの中では可能になるのかもしれない。本書ではその社会的ネットワークの形成と働きを律するいくつかの原理を研究していくことになる。
2016/04/22

 

【第1章 真っ只中で】

社会的ネットワークのつながりの中では、良いものも悪いものも、人から人へと伝わる。それぞれの例を本書から。

1840年代、コルシカ島での復讐の物語。アントンは妻のマリアが長い間浮気をしていた事を知る。そして娘は自分の子供ではなかった。逆上したアントンは、妻と娘を射殺する。マリアの兄のコルトは、復讐のためアントンを追うが見つからない。代わりにアントンの弟フランチェスカと、その息子アリストテロを殺す。アリストテロの弟ジャコモは復讐のためコルトの弟を殺した。そして今度はコルトの弟の息子が.....。

といった復讐の連鎖。考えてみればジャコモとコルトの弟には何の因果関係もない。とんでもない話だと思うだろうか?ところが今現在も中東などで繰り返されている悲劇と一体何が違うというのか?

この復讐劇の根本に何があるのかというと、『敵の友は敵』という人間が、もともと備えている感覚だ。つまり自分が属するネットワークを攻撃してくるものは、当事者同士に因縁があろうがなかろうが、自動的に敵となり防衛のために、攻撃しなくてはいけないという心理が働くのだ。逆に言えばそのネットワークに対してつながりの意識が薄ければ、復讐などを考える事はないだろう。

一方こんな話もある。
1995年ジョン・ラビスは、心不全で死にかけていた。人工心臓で急場をしのいでいる状況だ。しかしすぐに心臓移植のドナーが見つかり、ジョン・ラビスは失いかけた生命を取り戻した。彼の三人の息子たちは感謝を表すために、全員すぐにドナー登録をした。
2007年息子のダンが仕事中の事故で亡くなった。彼の臓器提供によって8人の患者が生命の危機を脱した。その後の事は書かれていないが、その8人の家族や友人たちの中にもドナー登録を行った人もいるのではないだろうか?そして8人の家族の誰かからの臓器提供を感謝をもって受けたまた別の患者もいる事だろう。その感謝から始まった勇気ある決断の連鎖も止まることを知らない。

上記のようにつながりは良い事にも悪い事に対しても大きな影響を生み出す。まるで社会的ネットワーク自体が、ひとつの生命のように活動を続けていくようだ。そしてつながりの影響力は、ごく身近なところにも及んでいる。どんな職業につくか?誰と結婚するか?はたまた夕食に何を食べるか?といった事まで、何らかのかたちで、影響を受けている。

勉強熱心な家族の子供は自然に勉強するし、たくさん食べる家族の子供は大食漢になったりする。ある家族が庭をキレイにしていると、そのとなりの家族も庭に花を植えたりする。色んなかたちで影響は伝染していく。

影響力は身近なつながりだけには、限らない。なぜなら知り合いの知り合いというかたちで辿っていくと6人目で総理大臣とも繋がったりするという現実があるからだ。だから今あなたが行っている行動は、もしかしたら、会った事もない、誰かの影響を受けているのかもしれない。沖縄の誰かがくしゃみをしたら、北海道に住むあなたが風邪をひくかもしれないのだ。

そしてつながりの影響力は、時にとても強い力を持つ。ネットワークの中の全員の個別の意思を加えたものよりも、大きな力を発揮する事も多い。
1+1+1+1が4に止まらずに10にも20にもなるという事だ。
スタープレイヤーはいないのに、チームとなると抜群の力を発揮するサッカーチームのようなものだ。

では上記の例などを勘案して、社会的ネットワークの基本的性格を見てみよう。ひとつめはなんらかの共通項を持つ『つながり』である。わかりやすいところでは家族、民族などの目に見えるつながり。その他にも通貨や宗教など、目に見えない信用や思想を共有する事によって、つながるネットワークもある。類は友を呼ぶというかたちで作り上げられるネットワークもある。

ふたつめは伝染だ。ネットワーク内では、何らかの、アクション、思考などが広がっていく。細菌、お金、暴力、ファション、肥満などなど。そのつながりと伝染というふたつの特徴を持つ、社会的ネットワークの力が、個人の意思と力を単純に足したものよりも、強くなるという事ならば、私たちは自らが暮らす世界をよりよくするために、社会的ネットワークの力と構造を研究するべきなのだ。

渡り鳥は編隊を組んで遠く旅をするが、個別の鳥の意思が独占的に反映されているわけではない。集団の知恵が自然に最適なコースを選択するという。さて人間は最適なコースを選択しているだろうか?鳥に負けてはいないだろうか?

本書には渡り鳥にも少し自慢出来そうな事例ぎ紹介されていた。それはアメリカで行われているという『暴力分断員』という社会貢献プログラムだ。暴力のサイクルを絶つことによって、新たな暴力を生まないようにしようという試みだ。暴力による被害者が出ると、その人物の枕元や家族、友人の家へ飛んでいき、復讐を思い止まるように勧めるだという。

冒頭のコルシカ島の例を考えれば、ひとつの復讐を防ぐ事だけでも大きな結果につながる事は期待されるだろう。ちなみに『暴力分断員』のメンバーには元ストリートギャングなども多数参加しているという。

第2章では信じられない規模に拡大した、『笑いの伝染病』にかかってしまったアフリカのお話からです。
2016/04/23

【第2章 あなたが笑えば世界も笑う】

1962年タンザニアにおいて、楽しくも、おかしくもないのに笑いがとまらなくなるという女子生徒が、述べ1000人以上を超えたという。この変わった病気?は突如発症し、感染した人は発作的に笑い始めた。

時間的には様々だが、中には発作状態の笑いが、数時間に及ぶ女子生徒もいたという。
ちなみに後でこの笑い病の犠牲者に話を聴いてみると笑っているのにもかかわらず、怖くてたまらなかったという。様々な医師や研究者がこの特異な病気の原因を探ったが
結局のところ何らかの精神的なヒステリーのようなものだったのではないかと曖昧な点を残したまま結論を出した。本書ではこの笑い病の原因を『感情のつながり』という人間が本能的に持っている働きの暴走ではないかと仮説を立てている。

それでは『感情のつながり』というものは何なのか考えてみよう。いくつかの実験から分かっていることは、人々は、他人が示す感情の状態に「感化」されるということだ。
つまり感情は伝染するということだ。

例えば、大学の新入生を無作為に選び、元気のないルームメイトと同室にすると、3ヶ月を待たずにどんどん元気をなくしていくという。買物をする際の店員さんの態度によってこちらの気分が良い方へも、悪い方へも簡単に変わるというのは体感的に誰もが感じることだろう。もしもその店員さんと二度とあうこともないし、これまでも一度も会ったことのない完全な他人だとしてもだ。冒頭の笑い病にかかった女子生徒は、この感情の伝染という機能が暴走したということだろうか?

そもそも我々の感情はなぜ心の中だけにとどまらず、身体の動きや表情として、周りの感情を表すのだろうか。飛び上がったり、悲鳴をあげたり、大笑いをしてみたり、拳をにぎりしめてみたり・・・。

本書によればそれは人間が生き延びるためだったという。抽象的な言い方をすると、より世界を正確に感知するためだという。

母親と赤ちゃんを例にするならば、赤ちゃんはお腹がすいた、または寂しい、などといった欲求や感情を「泣く」という感情表現で母親に伝える。母親は赤ちゃんの表情や泣き叫ぶ様子を勘で捉えることによって赤ちゃんの欲求を叶え育て上げる。つまり感情が何らかの動きを伴い、その動きの意味を知るということは人類全体からみて、種の保存という意味で、どうしても必要なことなのだ。

ここでその感情の感化という事に話を戻そう。本書には面白い実験が掲載されている。
それは55組の家族を対象に、家族間で感情の伝染がどうなるのかという実験だ。被験者にポケットベルを持ってもらい、90分から120分ごとにその瞬間、幸福を感じるか、それとも不幸を感じているのかを報告してもらったのだ。

その結果、娘から両親への感情の伝染が最も強く、反対に親の感情の状態は娘に影響を与えなかったという。父の感情は妻と息子に影響するが、娘には影響を与えなかったという。テレビドラマなどで、父親が不機嫌な様子で帰宅、妻と息子はその様子を見て
オロオロするが、ひとり娘だけはマイペースにテレビを観ているなどという場面はよくあるような気がするが、リアリティのある演出だったようだ。

スポーツチームや事業会社内でも、感情の伝染ということを皆さんも感じることは多いのではないだろうか?ある人が登場すると、場が一気の明るくなったり、または突然緊張感に満ちた空気が流れだすみたいな。それはこの感情の伝染が原因なのかもしれない。感情が伝染、つまり『つながる』という事はわれわれの身体そして精神状態というものも誰かの影響を強く受けた結果だということも言える。

著者は、2000年に1020人を対象にそれぞれ誰が誰とつながっているか?という状態を図表で表してみた。それによれば、ネットワーク内で不幸な人は不幸な人同士で、幸福な人は幸福な人同士で群れを作っているということがわかった。そしてこの図ではつながりが多い人ほど中央に近くなるが、不幸な人はネットワーク図の外れのほうに位置していたという。つまりつながりが多い人ほど幸福感を感じており(中央に近い)
不幸だと感じている人はつながりが少ない。

そして、著者によれば、長期的な幸福の50%は遺伝的な設定値、10%は環境(どこに住んでいるか、どれくらい金持ちか、どれくらい健康か)40%はその人がどう考え、何をしようするかに依存しているという。この遺伝が50%という数字を皆さんはどう捉えるでしょうか?
2016/04/25

【第4章 あなたも痛いが私も痛い】

「自由にしていいなら、人はたがいを真似るものだ。」 エリック・ホッファー

病原菌が人から人へ伝染するように、行動も伝染する。なんと、たまたま大食漢の近くに座った人は、なぜか同じようにたくさん食べてしまうのだという。そして影響を受けた人は大食漢の人の影響を受けたということなど気付きもしない。こうした現象は『無自覚な食事』と呼ばれている。もしかしたら食事以外にも様々なところで影響を受けているのかもしれない。少々とほほな仮説だ。

著書によればレストランで隣に座っているなど、物理的に近い人の影響をうけるだけではないという。もっとずっと離れた人の真似もするらしい。やはり人間は真似をせずにはいられない生きものなのだ。

本書ではわかりやすい事例として『肥満』の伝染について研究している。研究データの対象は、マサチューセッツ州フレーミングハム心臓研究所が行っている、1948年以来継続しているという総計12067人の健康に関する記録だ。

その中から5124人の主要グループに焦点を合わせ、5万を超える人の絆(ネットーワーク)を描き出すことが出来た。その結果、体重、身長、その他の重要な特性に関する情報と人のつながり(ネットーワーク)のデータと結びつけることに成功した。

つまりつながりのある人同士で『肥満』の影響があるのか?ないのか?ということを統計的、ビジュアル的に調べることが可能になったということだ。

結論からいうと、ずばり『肥満は伝染する』ということになる。具体的には『三次の影響のルール』という規則性が見られた。肥満者の友人、友人の友人、また友人の友人の友人も肥満者である可能性は、偶然であるとは思えないほど高かった。同じように、非肥満者から三次の隔たりまでの友人は、非肥満者である可能性が高い。ちなみに三次の隔たりを超えるとこうした『クラスタリング(群化)』は見られなかったという。もう少し細かくクラスタリングの興味深い性質を見てみよう。

①友人同士の絆の性質によって、影響力に違いがある。
・互いに友人だと認めあう友人が肥満になると、自分が肥満になるリスクは三倍になる。
・友人だと思われている人は、相手を友人だと思っていないなら、相手から何の影響も受けない。

②個人的に面識がない人からも影響を受ける。
・実際には会ったこともない、友人の夫の同僚があなたを太らせる
・妹の友人のボーイフレンドがあなたを痩せさせる

ではなぜ社会的ネットーワークの中で、肥満者や非肥満者のクラスタリングが起こるのだろうか?

①模倣
あなたがジョギングを始めれば、友人も真似して走り始めるかもしれない。
また、あなたが太る食べ物を食べるようになると、友人もそうするかもしれない。

あるいは無意識的に模倣してしまうという事もある。誰かが食べたり走ったりしているのを見るだけで、脳の中でミラーニューロンが反応する。見ているだけなのに、まるで同じことをしているかのように脳が反応するのだ。その結果脳のなかにルートが出来上がることになる。
つまり近い状況が訪れた時に以前見た行動と同じ行動をとってしまうのだ。『門前の小僧習わぬ経を読む』と同じように良いことも悪いことも自然と行動に出てしまうということだ。ということはいかに普段目にするもの、耳にするものの重要性が大事なのかと考えるべきだろう。

②規範
地理的に離れていても社会的に近い人達のあいだで肥満が広がることがある。1600キロ離れた人達が体重に影響を与えあうことがわかった。例えばこんな事例だ。あなたは年に一回、正月に弟に会う。弟は以前と比べかなり太っている。会っている日だけ、弟と同じようにたくさんごはんを食べても、あなたの長期的な体重に変化は及ぼさない。だが、1年前より太った弟の身体を見て、あなたの体型についての基準は変わるかもしれない。
「うわー、次郎のやつ、太ったなあ。でも健康そうだ!」
この結果、あなたの意識は変わるかもしれない。多少太っても健康に問題はなさそうだ。それなら今日はジムはサボって、久々にとんこつラーメンでも食べに行こうか、ついでに餃子と生ビールも??

もちろん肥満の原因は社会的ネットーワークだけで起こるわけではない。しかし肥満に限らず病原菌であれ、流行であれ、ネットワークでつながった人々のあいだで、どんどんと広がっていき、多くの人が無意識的に影響を受けているのだ。

自分の運命の主人は自分であり、食べるものから歯の磨き方にいたるまで、自分で選んで行動していると思っている。だが、現実はもっと複雑だ。私たちは否応なしに社会的ネットーワークの中に組みこまれているのだ。つまり自分を成り立たせているこれまでの経験も何らかのネットワークの影響の結果なわけだ。

その考え方に対して自分という存在を虚しいものと感じるのか?それとも大きな全体の中の一員であるという事に安堵するのか?感じ方はそれぞれだろう。

第4章では肥満以外にも、かなり興味深い事例が書かれている。それは『腰痛』だ。
ある不思議な事例を紹介してこの章のまとめを終わることにしよう。

東西ドイツが統一された時の話だ。ベルリンの壁崩壊より以前は、東ドイツの腰痛罹患率は、西ドイツに比べてかなり低かった。ところが統一から10年足らずで、東西の罹患率は同じレベルに収束し、東ドイツは西ドイツに追いついた。もしかしら腰痛というのは、精神的な面の大きい、伝染病なのかもしれない。あなたが痛いなら私も痛くなったのかもしれない。

続いて第5章はお金の話になります。
2016/04/28

 

【第5章 お金の行方】

皆さんは転職先やパートナーを紹介してもらった時にどのような関係の人からお話をもらっただろうか?本書に掲載されている事例によれば、そのような場合には、意外な事に普段からよく会う親友や家族などではなく、それほど会う事もない『ゆるいつながり』の人からの紹介が多いということだ。

まあ考えてみれば当然だ。親友や家族であれば、自分が知っている情報なら既に知っているわけだし、自分が求めている知らない情報なら、親友も知らない事が多いのだ。なぜなら同じ社会的情報圏の集団に属しているのだから。

よって今まで知らなかった有利や転職先や、会った事もない魅力的なパートナーと出会いたいなら自分の属す集団以外の人間の情報に頼るしかないわけだ。だとすると情報提供者の立場というのはどうなるだろう。当然感謝されるわけだ。

つまり情報を求められる程度の『ゆるいつながり』を、たくさん持っている人というのは、いろんな集団から重宝がられるのだ。ある集団(に属する個人)に情報やコネを与えることによって、今度は与えられた集団から、更に新しい情報やチャンスをもらえたりする。

つまり集団と集団の橋渡し役をする人は、ネットワーク全体で中心的な位置を占めるようになり、経済面をはじめとする見返りを得る可能性が大きくなるのだ。

本書では歴史の中からネットワークに力を利用して、大きな力を手に入れたある一族の話が紹介されている。15世紀のフィレンツェでコジモ・ディ・メディチは一族と支持者による同盟の指導者となった。メディチ家はアジアとの交易によって大きな経済的勢力をつけ、それまでのいくつかの支配者集団を退けるることに成功した。

新たな金持ち一族と、古い金持ち一族とのあいだの違いはどこにあったのだろうか?
それは著者によれば、社会的ネットワークの力を利用したか、しなかったかだという。

古い支配者集団はそれぞれ強固な序列をもち、集団同士のつながりはなかった。
一方新たな金持ち一族メディチ家は、商人やギルドの職人と婚姻関係を結び手を組んだ。そして出来上がったネットワークの中心にいたのはメディチ家だった。その結果メディチ家が、旧勢力を一掃し、北イタリアの支配権を手にしたのだ。そして彼らが作った新たな社会制度がのちの世界に民主主義をもたらすことになる。

このような支配のための、ネットワークの形成は現在も進行している。企業同士は婚姻関係を結ぶ事はないものの、取締役の椅子を、少数のネットワークの中心者同士で分け合うことにより、連携を強めている。ちなみみビル・クリントン元大統領は、多い時には12社の取締役を務めていたことがあったという。

日本でもファーストリテイリングの柳井さんが、ソフトバンク社外取締役を務めていたことがあった。現在のこのふたつの会社の時価総額を考えると、この2社が協力してきたということはとても興味深い。

経済取引というのは需要と供給に基づいて行われるというのが、古典的な経済学の前提だ。ところが、現実世界の取引は企業間のネットワークの力学によって行われている事が大多数なのではないか?この社会的ネットワークの影響力を考慮しないかぎり、もはや経済を語る事は出来ないだろう。

こうも考えられる。つまり社会的ネットワークというのは、その力を持つ人たちの間だけで共有される大きな力であり、それを持たない人々は、永久に彼らに支配され続けることになるのか?エリートたちが都合の良いように、ネットワークを形成して利益を手にするだけで、社会の他の層には届かない。つまり社会的ネットワークとは、格差社会を増長させ、保つシステムなのではないのか?

それに対して著者はそうではないという。あくまで社会的ネットワークの力は諸刃の剣であり、使い方によっては格差社会の解消にたいしても大きな力を発揮するという。

それ具体例として紹介しているのが、バングラデシュグラミン銀行の事例だ。
創始者であるムハマド・ユヌスは勤務先の大学の近くの貧しい村で、ある事実を知る。

村の女たちは竹を使った家具を作り生活していた。問題は材料を仕入れる時に、支払う現金がなかった事だ。そのため女たちは地元の金貸しから、法外な利息とともに、仕入れ代金を用意しなければならかった。商品が出来上がり売れたところで、また仕入れ代金分の現金は残らず、同じように借金を続けるという構図だ。

ユヌスは自分がお金を貸してやる事にした。42人の女性から申し込まれた借金の総計はなんと27ドルだった。一人分ではない。42人全員でだ。1人あたり1ドルにもならない。
これが後にノーベル平和賞も受賞する、ユヌスが始めたグラミン銀行の始まりだった。

このグラミン銀行が使った社会的ネットワークの力を紹介しよう。普通の利息で貸し出しをする銀行は資産のない人には融資しない。だから村の女たちは融資をうけられず、法外な利息で金貸しから借金していたわけだ。それに対してユヌスが融資に対して求めた条件は少し変わっている。そしてその条件とは、いわゆる性善説に基づく善行などではない。もっと人間の本質を見抜いたそして社会的ネットワークの力を存分に利用したものだった。

それは個人に貸し出すのではなく5人一組のグループの結成を求めたことだ。各人がビジネススキルの訓練を、1週間受けたのち試験に合格して、やっとグループのメンバーが融資を申し込む資格を得るのだ。更に融資はまずグループ内の2人に実行され、彼らが完済すれば、次のふたりがようやく融資を申し込める。ユヌスによればグラミン銀行モデルが成功した理由は
社会的ネットワークの特徴にあるという

 

『仲間からの目に見えない、またときには目に見えるプレッシャーのおかげで、グループのメンバー一人ひとりが自分を律するのです。』

 

 

ちなみにグラミン銀行はグループ結成への手出しを控えているという。自発的に形成されたグループのほうが結束が固いからだという。そしてグラミン銀行の成功のあと100を超える国々で同様のプログラムが誕生したという。

社会的ネットワークの力を利用すれば、金持ちの生活がさらに豊かになるのと、同じスピードで貧しい人たちの生活を改善することは出来るのだろうか?そのためのはこの社会的ネットワークの大きな力の存在自体をより多くの人々が認識することにあるのかもしれない。
2016/04/30

【第7章 人間が持って生まれたもの】その①

皆さんはサバイバーというテレビ番組を観ていただろうか?2000年くらいにアメリカで企画放送され、後に日本でもそのまま企画アイデアを取り入れ放映された番組だ。。ご存じない方の為に概要を説明しよう。

一般人16人を未開の無人島へ送り込みサバイバル生活を送らせる。その様子を何台ものテレビカメラが追いかけて放送するという内容だ。もちろんただ単に彼らの生活を追いかけるだけではない。もちろん目的がある。

それは最後の一人として生き残れば1万ドル(当時で約1億円)を受け取れるという
賞金稼ぎを伴ったサバイバルゲームだ。生き残りといっても殺し合いをするわけではない。実に民主的で残酷なルールが適用される。それは3日に一回『投票』によって追放者が選ばれという仕組みである。投票者は一緒に生活を送っていたメンバーだ。そして最後に生き残った人間が1億円を手にする事になる。

まず16人のメンバーはふたつのグループに分けられる。8人ずつに分かれ島の東西に分かれて生活を送る。まずは寝る場所の確保だ。そして食料の調達。生きていくための『仕事』をしなければならない。

想像してみよう。今まで一度も会った事のない男女が突然チームとなり、生きるために協力していかなくてはならないのだ。なかにはリーダー的な人物、従うメンバー、勝手気ままなメンツなど様々だろう。かなりストレスのかかる生活になりそうだ。

ルールにもうひとつ付け加えるものがある。それはふたつのチームによって、争われるゲームによって、負けた側から追放者を選ばなくていけないのだ。
(ゲームは体力と知力そして戦略性を使った宝探し風のゲームなどが多い。)

つまりゲームに勝ち続け、チームが勝ち続ければ自分が追放されるリスクが消滅するのだ。そうなると別の力学も生まれてくる。普段の生活ではまったく仕事をしようとしないメンバーがいたとする。はっきり言うと嫌な奴という事だ。

しかし彼は体力抜群でアタマも良い。ゲームになると大活躍だ。するといわば戦争に勝つために残しておきたいメンバーとなるわけだ。

このチーム対抗戦は16人が半分の8人になるまで続けられる。その後は8人がひとつのチームとして合流することになる。

さてもしもこういったシチュエーションになった場合あなたならどういう態度でメンバーと接するだろうか?投票によって追放されないように嫌われてはいけないだろう。しかしあまりに突出しすぎた場合も危険だ。誰に対しても脅威となり追放される可能性があるだろう。非常に難しいところだ。

だが、考えてみれば我々が暮らしている世界ももしかしたらそれほど変わらないかもしれない。そして誰かがどこかでその様子を楽しんで観ているのではないか?と想像することは難しいことではないだろう。

さて実際のゲームがどのように進行していったのかを本書に書かれている例の通り進めていこう。例えば最初に追放されたメンバーは男性刑務所の女性看守だった。積極的にリーダーシップをとり、皆に指示を与えるが、威張っていると受け取られ嫌われ早々と追放される。

続いてはこっそりビーフジャーキーを持ち込んでいるという疑いをかけられた軍人男性が追放された。密告したのは分けてもらえなかった女優の卵の女性らしい。食べ物の恨みは怖い(笑)

そんなこんなで生き残ったのは8人になり三週間後ふたつのチームが合流する。興味深いことに各チームはこの間に結束し、連帯感は合流後も維持されていることがわかる。
つまりこういうことだ。旧チームで話し合い相手チームの誰を追放するのか打ち合わせを行っていくということだ。

そうなると旧チームごとの協力体制の優劣という側面が出てくる。当然つながりが強いチームは、一致団結して、相手チームの人数を減らすという戦略をとることになる。

合流後は少しルールが変わる。追放者を選ぶゲームが個人戦に変わるのだ。つまりゲームで勝利した1名のみ追放の投票の対象から外れるのだ。ということはゲームに勝ち続ければどんなに嫌われていても優勝出来るということになる。

ここでさきほどの旧チームのつながりの力が示される。行われたゲームの内容はとても単純だ。川の中に立てられた丸太の上に誰が一番長く立っていられるか?というゲームが行われた。数時間さらに1日がかりの長いゲームだ。

ここでつながりの力を示す場面が訪れる。すでに夕闇があたりをおおう頃丸太の上に立ち続けていたのはふたりだけだった。

ひとりは調理師のキース。もうひとりは看護士のティナだ。ちなみにふたりは同じチーム出身なので、会話をしながら立ち続けている。しかしふたりの様子は対照的だ。

疲労困憊した表情のキースは、余裕の表情のティナに頼み込み。「ここは俺に勝たせてくれないか?」実はキースは相手チームから狙われていたのだ。もしも追放の投票に望めば追い出される事は明白だった。ティナはこのゲームで勝ち安全圏に行く事は可能だったがあえて負けを選び川へ飛び込んだ。
「チームのためにはキースに勝たせなくてはと思ったの」

その結果次の投票で追放されたのは相手チームのメンバーからとなり、ティナとキースのいたチームの優勢はあきらかになった。

そして生き残ったのは3人となった。キース、ティナ、そしてテキサスの若者、コルビーだった。全員同じチームだ。この3人で追放免除チャレンジゲームが行われる。
まさに天王山といえるだろう。このゲームで勝てば決勝戦行きは保証されるのだ。

そしてこのゲームの勝者ひとりの意思が決勝の相手を決めることになる。なぜなら免除されていないふたりは当然相手を追放投票するわけだから免除者が追放すると選んだ人間が追放されることになるわけだからだ。ゲームに勝ったのは若者コルビーだった。
そして最終的にどちらを、このサバイバルゲームの勝者として選ぶのかを決定するのは
今まで追放されていった14人のメンバーの投票によってだ。

つまり最終的にはこのゲームで勝利するためには追放していったメンバーからも信頼、
そして好意をもってもらわなければならなかったわけだ。容赦ない非道な方法で勝ち残ったとしても、結局勝てないというゲームなのだ。逆に言えばこういう事も言える。

免除者であるコルビーが選ぶべき選択は勝ちやすい相手。つまり相対的に人気のない者をふたりの中から残せばいいわけだ。

投票者の間で残ったふたりの評判は対照的だった。ティナは誰に対しても思いやりのある態度で接しており好かれいた。一方キースは傲慢な態度が目立ち嫌われていた。
だからテレビの視聴者はだれもがコルビーがキースを相手に指名し結果一億円を手に入れるだろうと予想した。

しかしここで意外な事が起こる。コルビーはキースを追放しティナを対戦相手として選んだのだ。テレビの前の視聴者は度肝を抜かれた。目の前の1億円をどぶに捨てるのか?と。。。。。

実はコルビーとティナな同じチームでずっと協力しあいゲームという枠を離れても、
人間同士として強い絆を築き上げていたのだ。その結果コルビーはティナを、対戦相手として投票者の審判を受けた。

一億円を手に入れたのはティナだった。そしてふたりは強く抱きしめあった。

コルビーの行動はどんな事をわれわれに教えてくれるのだろうか?そして彼の決断をどう思われるだろうか?

このケースは極端にドラマチックな例だ。しかし我々の日常にもスケールは小さくなるが同じような決断を迫られる場面はたくさんある。

つまり私たちは友人をたすけているだろうか?それとも自分のことだけを考えているだろうか?他人を助ければ愚か者に見えるのではないか?だが助けなければ卑劣な人間に見えてしまうのではないか?

世の中は同盟関係と利害関係が複雑に入り交じっている。そんな世界でも、もしも我々人間全員が常に経済的で合理的な判断を、確実にこなせるとするなら物事は単純だろう。だがそうではないわけだ。自らが損をするような行動でさえ、平気でとってしまうのが人間だ。なぜなのだろうか?

そのあたりの秘密はやはりつながり、社会的ネットワークの力に隠されているようだ。
続いてコルビーのような利他精神(騎士道精神?ただのカッコつけたがり??)はどのような理由で我々人類に備わっているのか?という謎を解明していく事になる。

第7章はまだまだ続きます。

2016/05/03

【第7章 人間が持って生まれたもの】その②

あなたは偽善者と誰かに言われたことがあるだろうか?または誰かを偽善者と呼んだことがあるだろうか?そもそも偽善的行動の表面的な現れである、他人のための行動の動機とはどこからやってくるのだろうか?

何らかの見返りを期待した行動なのだろうか?それとも何か神懸かり的な高潔な意思をもった人たちが存在するのだろうか?もしも遺伝情報として、人間にはもともと利他性が備わっているとしたら驚くだろうか?

他人のために動く事は道徳や教育によって身につけるものだけではなく生まれつき人間に備わっているとしたらどう思うだろうか?そもそもなぜ時折人間は自分を犠牲にしてまで他人を助けようとするのだろうか?

本書では『愛の続き』という小説の冒頭が紹介されている。

気球の吊りカゴの中で、小さな男の子がおびえて身を丸めている。男の子は気球の吊りカゴの中に入って遊んでいたのだが突然の強風で気球が浮き上がってしまったのだ。

その子の祖父が、気球が飛ばされないようにロープを必死で押さえている。祖父の助けに応じて5人の男が駆けつける。ここでまた非情にも更に強い突風が吹き付け、
気球は浮かび上がり、6人の男もロープをつかんだまま空中に浮かんでしまう。

その時一人が手を滑らせ、手を離してしまう。すると気球は一気に浮上する。
残った男たちは苦渋の選択を迫られる。一人が手を離す、また浮上する。さらに一人が手を離し・・・結局一人だけが残される、最後の男は手を離さなかった。気球は空高く舞い上がる。地上で男たちが見守る中、残った男はこらえきれず手を離す。男は100メートル以上の高さから落下した。

経済学の基本的な考えでは、人間は誰もが最小の労力で、最大の利益を得るように行動するものだと捉えている。その考えの元での、相手のための行動とはつまりこういうことだ。

『背中を掻いてあげましょう。あなたも私の背中を掻いてくれるはずだから。もしもあなたが私に何もしてくれないというのなら、もちろん私もあなたに何もしませんよ』

 

 

あくまで対等な見返りを期待しての行動をするということだ。ここには利他精神の入り込む余地は全くない。しかし著者は別の見方を提案している。それが『ホモ・ディクティアス』→ネットワーク人という意味だ。人間はネットワーク人であるという仮説からの視点を取れば、冒頭の疑問に対しての答えを出す事が出来る。

人間の行動の動機を、利己主義オンリーからの行動だけでは理解不能な『なぜ人は時に他人のために自らを犠牲にするのか?』という問いに答える事が出来る。結論からいうと人間はもともと他人のために行動するように進化してきたのだ。

偽善者と呼ばれる人にとって他人のために自らを犠牲にするという行動は偽善でもなんでもなくてもともと人間が持っている生来のものにすぎないのだ。

その根拠となるいくつかの実験が紹介されている。ここでは1982年に行われたという『最後通牒ゲーム』というものを見ていく。

以下引用

二人の参加者が実験者から与えられた10ドルを巡って駆け引きするゲームだ。
一人目の参加者は、10ドルの分け前を二人目の参加者に「提案」するように言われる。
全額与えてもいいし、
全額を自分のものにしてもいいし、
半分にわけてもいいし、
とにかく、10ドルを可能な限りどんなふうに分けてもいい。

次に、二人目の参加者が、その提案を受け入れるか拒むかを決める。
受け入れれば、合意した通りにお金を分けて二人ともその金額を手に出来る。
もし二人目が提案を拒めば、そのときは、どちらも何ももらえない、それでゲームは終了だ。

もしも人間が冷静に利己的に行動出来るとするのなら
二人目の参加者はいくらであろうと提案を受け入れるのが当然の選択だろう。
たとえもらえる金額が1ドルでも1セントであろうと
もらえないよりは得だからだ。
一人目の参加者も同様に考えるだろう。
1セント渡せば相手は得なのだから納得するだろうと。

ところが被験者である、アメリカの大学生は意外な結果を見せてくれた。
二人目の参加者は小額の提案を拒むことが多かったのだ。
2ドルという提案に対しておよそ半数が拒み、
さらに定額の提案は完全に拒まれる事が多かった。

さらに一人目の参加者もそうなることをわかっていたようだ。
不公平な提案が少なかった。
二等分という提案が最も多かったそうだ。
一人目の参加者は、相手と話し合いもしないのに
落としどころがわかっていたようだ。

一人目の行動は利己主義からでも理解できる。
しかし二人目の行動は利己主義オンリーからだけでは説明できない。
なぜ面識もない、再び会うこともない知らない相手からもらう2ドルを拒否するのだろうか?

このゲームのルールを少し変化させた『独裁者ゲーム』の結果も興味深い。
変わったのは、二人目の参加者に選択の機会はないということだ。
つまり一人目の参加者が二人目の参加者にいくら与えるかを自由に出来るのだ。
この結果も利己主義的な考えからすれば驚くべきものだった。

一人目の参加者は二人目の参加者に対して、平均2ドルを渡したのだ。
もしも人間の行動が私利私欲にのみ決まると考える限り説明がつかない。
最初から面識もないし、これからも会う事もないだろう相手に
自分の財布から2ドルを与えるようなものだ。

全員が上記の実験と同じ結果を出すとは限らない。
しかし言える事がある。
世の中には自分のことしか考えない人もいる。
だが、他人の幸せと利害を考慮する人のほうが多数派なのだ。

ここで少しだけ疑問をずらす。
人間はなぜ社会的ネットワークをつくるのだろうか?
答えは案外単純かもしれない。
我々の祖先である初期の原人にとっては、
集団で暮らした方が
つまり社会的ネットワークの中で生きたほうが、
生存、生殖の可能性が高まったからだろう。

そうなるとネットワーク自体も、自然と集団としての意思を持つ事になる。
その結果ネットワークを維持するのに適した個体を選ぶという事も考えられる。
つまりネットワークのために自らを犠牲にする個体が
生き残ってきたということなのだ。

そういった個体の多いネットワークが生き残り
そのネットワークの子孫が我々なのだ。
他人を思いやるように、また他人の幸せも考慮するように
進化したのが我々なのだ。

人間は自らの生体維持と種の保存のために有益なことをした時に
脳から快楽物質を受け取り、気持ちのよい思いをする。

例えば罪の意識という感覚がある。
自分だけが他人の犠牲のもとに、なんらかの報酬を得た時
困っている人を助けられたのに、何の助けも出せなかったとき
どうにも嫌な気持ちになる。
これは罪の意識という事になるだろう。

一方誰に褒められるわけでもないが。
誰か困っている人を手助けすることが出来たとき
心の深い所からなんとも幸せな気分を感じたりする。

自分の行動だけではない。
なぜ人は誰かの勇気ある無私で高潔な行動に対して
こころを動かされるのだろう?
なぜ作り物である映画や小説などの物語の中の
高潔な行いでさえ涙を流すのだろうか?

それはきっと誰かのために何かをするという事は
良い事なのだと遺伝子に刻み付けれているからなのだろう。
それが社会的ネットワークの中で進化してきた
人間というものの特性なのかもしれない。

 

2016/05/05

【第8章 おびただしいつながり】その①

少し古いデータだがこんな驚くべき数字がある。【15世紀には、欧州での出版点数は8500点で、データ量に換算すると0.07TBとなる。そして、カリフォルニア大学バークレー校の調査によると、2000年の出版点数は6500万点、データ量では520TBとなる。さらに現在は、インターネットを流れる映像や音声の情報をそれに加えると、全世界の情報量は2300万TB、15世紀の約3億倍といわれている。】

http://q.hatena.ne.jp/1212408659

インターネットが一般に普及したことにより、世界中を流れるデータ量は爆発的に増加した。データとか情報というと、難しく感じて他人事と思ってしまう。だが、これは私見だが、このデータ量の増加の主な原因は我々一般人の日常的な、なにげないコミュニケーション、つまりLINE、フェイスブックなどを通したつながりの増加なのではないかと考える。

加えて第8章の冒頭に登場するオンラインゲームも大きな割合を占めているだろう。
この章では、そのつながりの力の増加が、社会的ネットワークの性質を変化させたのか?という事が検証されている。

僕自身は全く知らない世界なのだが、オンラインゲームの規模は凄いらしい。本書によれば『ワールド・オブ・ウォークラフト』という「多人数同時参加型ゲーム」には毎月1100万人もの人々が参加しているという。

東京の人口と変わらないくらい?本書は出版から数年経っているわけだから、今現在だとさらに参加人数の多いゲームもあるのだろうか?

『ワールド・オブ・ウォークラフト』の中で起きた興味深いエピソードが紹介されている。

2005年にゲームの開発者たちは、ゲームに少しピリットしたスパイスを加えるために機能を加えた。それはゲーム内の一部エリアにて、プレイヤーに対して、伝染病を感染させる怪物を登場させたのだ。チームでその怪物と戦う際、一人が感染すると、他のプレイヤーも伝染病に感染してしまうので要注意だ。だがプレイヤーたちが力を合わせ怪物を退治してしまえば伝染病はすぐに治る。開発者からすすればゲームを少し盛り上げるちょっとしたアイデアに過ぎなかった。

ところが思わぬ事態が起きた。あるプレイヤーが感染した後、怪物と戦い続けて死ぬのを嫌がって逃げ出したのだ。その結果一部エリアで怪物と戦っている際のみ感染する伝染病が、全く関係無い場所で、関係無いプレイヤーにまで感染してしまったのだ。感染のスピードは予想以上に速く、あっという間に仮想世界全体に広がった。何十万人もの弱いプレイヤーをあっという間に死に追いやった。ゲームの進行まで止めてしまうようなこの予想外の事態に開発者たちは様々な対策をとった。

しかし効果はなかった。誰もこの伝染病を止める事は出来なかった。最終的に開発者たちは現実世界では絶対にありえない方法を使った。このゲームの大本であるコンピュータサーバーの電源を落としたのだ。サーバーの再起動後、疫病の流行はぴたりと止まった。

この事例は学者たちの強い興味を引いた。なぜなら仮想世界の中のプレイヤーたちの動きはまるで現実世界で伝染病が発生した時のような状況をそのまま映し出していたからだ。

例えばプレイヤーの中には利他精神を発揮し、流行の発信地に出向き感染したプレイヤーを助けようとしたものもいた。また感染が広がるのを避けるようにどんどんと仮想世界の中を逃げ出すプレイヤーもいた。逆に好奇心の赴くまま、流行地に出かけ現場の様子や感染者たちを見学するものいた。さらに反社会的なプレイヤーも存在した。わざと伝染病に感染しそれから様々な場所に移動しわざと疫病を広げるものもいた。

何千年ものあいだ、我々の情報伝達の手段は直接の対面が主だった。ところが文字が発明され、印刷技術が生まれ、電話、そしてインターネットが一般に普及した。上記のゲーム内では、プレイヤーが仮想世界の中でどんどん伝染病に感染するというエピソードだった。へーーーそんな話があるんだーという程度だ。

ところがよくよく考えてみるとネット社会を通じた情報のつながりの影響というのは怖いかもしれない。例えば『思想』という考え方のひろがりと考えるとどうだろうか?やはり同じようにどんどんと広がっていくのだろうか?思想や考え方というのは、人間の行動の基礎をなすものだ。つまり人間の行動の大本を支配するものだと言えるだろう。

本書では続いてネット社会で起きた『考え方』の広がり、そしてその中での人々の動向というものを、良い面と危険な面両方から検証していく。

続く
2016/05/07

【第8章 おびただしいつながり】その②

紀元前のエジプトの石碑が見つかった。書かれていた文字を解読してみた。そこに書かれていたのは『最近の若者はなっとらん!』という言葉だった、という冗談のような話を聞いた事があるだろうか?

新しい世代の行動はいつも分からないもので、とりあえず前の世代は批判するという事か?ここ最近で一番批判の的になりそうなのはインターネットの爆発的な普及によるコミュニケーションの変化に関連することではないだろうか?

皆さんはインターネットの爆発的な普及をどう感じるだろうか?会社での休憩時間多くの同僚が集まっているが全員が下を向いてスマホの画面を眺めている。冷静に考えるとかなり異様で不思議な光景だ。

もしかしたら目の前にある現実よりも、スマホを通して交流している世界が、私たちにとっては本物なのかもしれない。その世界で楽しむための経費を稼いでいるのが、目の前の会社での仕事なのかもしれない。

本書ではこんな話が紹介されている、
エイミーは夫のデビッドとネットのチャットルームで出会った。二人は実生活で結婚したが、同時にセカンドライフでも盛大な結婚式を挙げた。その後、エイミーは夫が仮想世界で浮気をしているという疑いをもった。その仮想世界の中の探偵事務所に夫の素行調査を依頼した。結果浮気現場を押さえた。

「夫は実生活では何もしていませんでした」とエイミーは認めている。しかし現実の離婚訴訟の申し立てのなかで、エイミーは「不倫をしていた」と表現した。

デビッドはオンラインで女性と親しく関係を持った事は認めたものの、現実世界では何の過ちも犯していないと述べた。この話冗談みたいな話だが、もしかしたらこれから
自分の周りで同じような事が絶対おこらないとは言い切れないだろう。インターネットの普及は、社会的ネットワークの質も変えてしまうのだろうか?

こんな危険な例も書いてある。オンラインの中には偏執狂的な妄想を抱く人たちの集まりもある。本書で紹介されているのは
「密かな嫌がらせと監視からの解放」という名のグループだ。数百人の常駐ユーザーが、監視されている状況について意見を交換しているという。「このコミュニティーを見つけて、本当にほっとしました。」

55歳のデリックは語る。
デリックはシンシナティの用務員だ。
「同じような人がほかにもいるはずだと思っていましたが、このコミュニティーを見つけるまでは、確信が持てなかった。」
このようなグループは他にも多数存在しているらしい。

こうしたサイトを通じ、妄想癖のある人は心に安らぎと落ち着きをもたらす経験をする。それは他人に理解してもらえるという経験である。通常こういった妄想を持つ人は周囲に理解されない。その結果しだいにその妄想は消えていくのが普通だ。

ところが自分以外にも同じ思いを抱く人間が存在すると事がわかればその妄想に対しての確信は強まっていく。どんどんリアルな体験に近づいていく事になる。

イエール大学のホフマン博士は言う。
「餌を与えなければ、遅かれ早かれ妄想は消えるか、小さくなっていきます。重要なのは、妄想には強化の反復が必要なことです。」
この例はインターネットという新しいつながりがもたらす危険性だ。

それでは希望はないのだろうか?本書ではこんなエピソードも紹介されている。

皆さんも普段から利用していそうなウィキペディアのケースだ。ご存知の通り、誰もだ編集可能なオンライン上の百科事典だ。本書掲載時では1200万を超える記事が、
200の言語で記載されている。このウィキペディアはボランティアによって運営されている。

このウィキペディアの信頼性に対し疑問を持ち、挑戦状を叩き付けた人物がいる。アメリカのコメディアン、スティーブン・コルバートだ。彼は影響力の大きいものの言葉なら、根拠がない情報でも、オンライン上で共有される事により真実のようになってしまうという現実を『ウィキアリティー』と名付けた。「ある程度の人たちがある考え方に賛同すれば、それが真実になってしまう現実」ということだ。

彼はその危険な現実を実証するために実験を行った。テレビ番組出演中にこんなデマ情報を流したのだ。
『世界のゾウの生息数は過去10年間で3倍になったので、もはや保護の必要性はない』

この発言のあと数分で、ウィキペディアのゾウの項目は書き変えられた。しかし、すぐに常連のボランティア執筆者によってその記述は訂正された。その後も攻防は続いたが、結局いたずら者は降参した。正確な情報を守ろうとした尽力した人々が勝利した。
ゾウの項目は元通りになった。

ウィキに詳しいアンニャ・エバースバックの言葉は印象的だ。
「ウィキの構想を初めて知ると、たいていの人は、誰でも編集出来るウェブサイトなんて、有害な書き込みですぐに役立たなくなると決めつける、灰色の壁のそばに無料のスプレーペンキを置いておくようなものだからだ。せいぜい見苦しい落書きや署名で汚されるのが落ちで、芸術的な作品をいくら書いてみても長く残ることはないはずだ、ところがウィキはうまくいっている。」

科学雑誌ネイチャーに発表された記事によれば、ウィキペディアの標準的な記事は、
ブリタニカ百科事典の記事とほぼ同じくらいに正確だという。

ウィキペディアのネットワーク内には『協力者』(偏りのない新情報を寄せる人)と
フリーライダー』(他人が確立した情報を利用しようとする人)がいる。加えて『処罰者』も存在する。彼ら処罰者は悪意ある編集を修復したり、犯人たちのノートページに個人的な注記を残したりする。

まるで現実世界での社会的ネットワークと全く同じ構造を持っているのだ。ウィキペディアのネットワークも現実世界のネットワークでも同じ事が言えるだろう。私たちが協力しあうのは、国家や中央の権力に強いられるからではない、つながりのチカラが自然とネットワークを維持するのだ。

さてこの三つの例からわかることはなんだろうか?言えることは、社会的ネットワークのカタチはどんどん変化する。その動きは前の世代にとっては不可思議で危険なものに映る。エジプトの遺跡に「近頃の若者はなっとらん」と刻んだ誰かはある意味『処罰者』であったのかもしれない。急激な変化は危険であるということを無意識的に伝える役目があったのかもしれない。しかし『協力者』たちはその警告をふまえつつ
あらたな変化を生み出していく。

その絶妙なバランスが人間社会を発展させてきたのだ。そのバランスこそ社会的ネットワークの力だ、つまり社会的ネットワークの力こそわれわれ人間の最大の財産と言えるのかもしれない。個々人の力の総和をはるかに超える力を作り上げるのが社会的ネットワークの力なのだ。
2016/05/11

 

【第9章 全体は偉大なり】
もしも朝起きて、すべての言葉が通じなくなっていたらどうなるだろうか?自分の言葉だけではなくて、他人と他人もだ。世界はいったいどうのような一日を過ごすだろうか?

少し現実的にありそうな事として想像してみる。何者かが、インターネットの通信網を、完全に破壊するというテロを起こす。いったい世界はどんな一日を送るのだろうか?

第9章はバビロンの塔の逸話から始まる。なんでも出来ると奢った人間が、
神が住む天まで達する塔を作り上げた。怒った神が人間に与えていた共通の言葉を奪う。それによって世界中には、数えきれない言葉と文字が無数に現れる事になる。

これは何を意味しているのか?神が人間から奪ったものは何だったのか?答えはずばり『つながり』だ。強力なつながりの力を人間から奪い取ったのだ。

その後人間はどうなったか?ご存知の通りだ、未だにあらゆる所で誤解、疑念が渦巻き、争いが絶えない。

この本はつながりの力を使えば『幸せになりますよー』という本ではない。冷徹につながりの力を研究して、広い意味で政策などに反映させる事を願った本である。

つまりこのつながりの力をどう考え、また自らの人生に役立たせるのか?いかに自らが関わるネットワークに貢献できるか?それが、この本を読み終わった自分自身に課せられた課題といえるだろう。

我々人類はこれまでも大都市の建設知識の集約である図書館の発明、有人宇宙飛行を成し遂げて来た。だが問題をすべて解決してきたかとは、とても言えない。今現在も格差、テロリズム、環境問題など問題は山積みだ。

しかし本書で何度も言及されているとおり『つながりのチカラ』は強力だ。そして我々が手に入れた、インターネットを始めとする社会的ネットワークのチカラは、バビロンの民の時代より強力だ。

そのチカラをどのように使うか?自らを破滅に向かうために使うのかより良いネットワークを作り維持するために使うのかは、われわれ一人ひとりがそれぞれ今立っている場所で何を考えどう行動するか?ということにかかっているだろう。人類がまとまれば、全体で一人ひとりに総計よりも、大きなチカラを得る事が出来る、これは間違いないだろうから。


読了
2016/05/14