天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

”もののあはれ”という概念とSFを結合するとどんな物語が生まれるのか?

 

もののあはれ」という極めて日本的な概念がありますが、これを違う国の人に、または同じ日本人に対してでも、言語として説明するというのは難しいですよね。おそらく自分の中で「もののあはれ」がうまく概念化されていないんですね。しかし今回読んだ「もののあはれ」という短いSFストーリーによって少しだけ自分の中でその微妙な感覚の概念に近づけたような気がしました。面白いことに、この物語を書いたのは日本人ではなく中国系アメリカ人のケン・リュウという作家です。この短編集に収録されています。

 

ストーリーの大枠はハリウッド映画の「アルマゲドン」に近いかもしれません。思い切り抽象化すると自分を犠牲にして共同体を救う男の話です。それだけだと、どこにでもあるストーリーになりますが、そこに付け加えたアイデアがすごい。大胆なんだけど結果的にとても自然。そのアイデアとはSFストーリーに「もののあはれ」という感覚をミックスするという発想。

少し具体的に説明します。(以下ネタバレ含む)

ひとりの男の回想と現在を交互に描いています。男がいる場所は滅亡する地球から脱出する宇宙船内部。男はただ一人の日本人つまり人類最後の日本人。で、その宇宙船の外部に致命的な故障が見つかる。修復しないと船は航路をはずれ宇宙をたださまようことになる。船内では静かな絶望のムードが漂う。男が自分なら船外へ出て修復出来ると宇宙へ出ていく。男は船外で故障箇所へ向かいながら、地球にいた頃の記憶を回想します。父親から教えてもらった囲碁松尾芭蕉の句、自然の風景の中にある「もののあはれ」という感覚。自分だけを船に乗せてくれた父と母との最後の瞬間。その回想のなかで彼は「もののあはれ」という概念を体で理解して、今自分がしている行動(自己を犠牲にして共同体を助ける)の意味というか、意義を理解するんですね、今自分が行っていることこそ「もののあはれ」なんだと。

「個々の石がヒーローではないけれど、ひとつにつどった石はヒーローにふさわしい、散歩するのにうってつけのすてきな日じゃないか」
父さんが言う。そしてぼくらは並んで通りを歩いていく。通り過ぎるすべての草の葉、すべての露の雫、すべての沈む夕日の薄れゆく光を憶えていられるように、計り知れないほど美しいすべてのものを忘れないように。

で、そんなストーリーを読んで、私も少しだけ「もののあはれ」という概念を理解できたかな、という感想を持ちました。その自分なりの理解を一段階だけ下位に具体化するとすると「出会ったものに対する敬意」というものなのではないのかな、と。そしてその感覚自分足りないわ、という反省も(汗)

そのように作家の概念を理解しようとすることによって、自らの概念を創り上げる、または発見する、そして我が身を振り返ることの出来る「読書」という行為も、概念操作のひとつの方法なんだろうなぁとも思います。

ついでにこの短編集その他にも素晴らしい作品が収録されています。その他の作品についても後で書いてみたいと思います。