天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

接続詞は道路標識のようなものかもしれない、という話

前から思っていたんですが文章を書くということって、旅をしているようなものではないでしょうか?といいますのも旅っていうものは今ある場所を離れて違う場所へ行って帰ってくることですよね。行きて帰りし物語

 

 

で、同じように文章というものにも初めがあって目的地があって帰ってくる場所がある。旅のように目に見える場所ではありませんが頭の中の旅を文字化したものが文章。

 

初めとは今の自分であって目的地とは描くモチーフ、つまり新たな知見や出来事、印象的な人との出会い。帰ってくる場所とは出会いの結果、何かが変わった自分ということになる。これもまた行きて帰りし物語といえます。

 

そう考えてみるとやはり文章を書くということは旅のひとつといえるのではないでしょうか。そして実際的な旅であっても頭の中の旅である文章書きにしても新たな場所や新たな考えに出会ったとき人は戸惑います。たいてい困ります。迷子になってしまします。

 

そんなときに役に立つのが実際の旅であれば道案内の看板や道路標識なんですね。
そして文章においての道路標識にあたるのがずばり接続詞になるかと思います。

 

「例えば」の標識があればより具体的なエピソードを教えてくれるんだなとわかるし「しかし」の標識があれば前文に対しての別の角度からの考察なんだなとわかる。
「したがって」のあとには筆者の結論がまとめられている。この文章という旅のいたるところに配置されている道路標識にしたがって読んでいけば筆者のたどり着いてほしい結論という目的地にたどり着くことが比較的かんたんになるんですね。

 

さらにこの道路標識は読む場合だけではありません。自ら文章を書き進める場合にも役立ちます。ある一行を書いた。それが前文に対して何にあたるのか?それを考え文頭に接続詞を与えればさらなる考察ができますし、次にどんな接続詞が自然に浮かぶのか?
それを考え適切な接続詞をまず書いてしまえば次の一行は自然と頭に浮かんできたりします。

 

そして肝心なのはいかに帰ってくるか?ということです。接続詞を積み重ねつつ新たな場所をめぐり旅することによって、つまり書くことによって書く前の自分と何か変われたのか?さらに出来ることなら読んでいただいた方に何か読む前と変わってもらうことができたのか?たとえそれがミクロの意識の変化であろうとも。それができたとき、それが叶ったとき深い意味での人と自分とのコミュニケーションがとれた、ということなのかもしれませんね。それはきっと素晴らしい体験です。

 

旅は出会い、という言葉もありますがその意味でも文章も旅のひとつであるのは
間違いないかと思います。これからも飽きずに文章を書きながら良き旅を楽しんでいきたいものです。


2017/08/27