天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

人はなぜ小説を読むのか?という話

 

蜜柑・尾生の信 他十八篇 (岩波文庫)
 

 

今まで一体何冊の小説を読んできたんだろう?と考えることがあります。たぶんリアルに知り合った人たちの数の何十倍もの人数のキャラクターと小説の中で出会ってますし、自分が今まで行ってきたいろんな行動の数十倍もの出来事を小説の中で仮想体験しています。とても少ないとはいえない時間を使って。そこまでして自分はなんで小説を読み続けるのだろう?

その答えは仮説ですが、小説を読むのは「概念を見つけるため」なのではないでしょうか?村上春樹はこんなことを言っています。


「頭で解釈できるようなものは書いたってしょうがないじゃないですか。物語というのは、解釈できないからこそ物語になるんであって、これはこういう意味があると思う、って作者がいちいちパッケージをほどいていたら、そんなの面白くも何ともない。読者はガッカリしちゃいます。作者にもよくわかってないからこそ、読者一人ひとりの中で意味が自由に膨らんでいくんだと僕はいつも思っている。」【みみずくは黄昏に飛びたつ】

 

みみずくは黄昏に飛びたつ

みみずくは黄昏に飛びたつ

 

 

その「頭で解釈できないもの」「作者にもよくわかっていないもの」ってまだ答えがぼんやりとしかわかっていない、なんらかの「概念」のことなのではないでしょうか?で、作家はその概念の元となる出来事、感情、思考に出会ったとき、その「概念」とはいったい何なのか?それを探るために小説というかたちで言葉を書き連ねるのではないか、そして読者はその作家の概念を探る思考の旅を追体験することによって、自分の中にもある、答えの出ていない、つまりまだ概念化されていない、何らかの出来事や感情を概念化したい、だから人は小説を読むのではないのかなと。

 

小説は基本的には具体を積み重ねます。出会った人のこと、遭遇した出来事、そして頭の中で思考として実際に考えたこと。注意しなければいけないのは頭の中で起こったイメージ的な事を「抽象的」と捉えてしまうこともありますが、たいていそれらは「実際に頭のなかで起こった具体的な事象」です。春樹さんの例ですと繰り返し出てくる井戸のイメージや若くして自死してしまう友人や恋人、というのは実際に起こったのかはわかりませんが、作家自身の頭の中では実際に具体的に起こったで出来事なのです。したがって小説というのは具体に具体を積み重ねることによって出来上がっている。私はそう思います。

 

例えば芥川龍之介の短い掌編【蜜柑】という小説があります。自らを下等で無価値だと思っている男が、同じ電車に乗り合わせた、自らの心象を具体化したような、下等で無価値と思えたひとりの小娘の具体的な行動によって心という具体が救われる、という話です。と、一文でまとめてしまいましたが、このような説明ではこの【蜜柑】で作家が探ろうとした「概念」の一万分の一のうわずみしか表現できていないとおもいますし、自分自身でもそう思います。まだ私は【蜜柑】という小説が表現している概念を理解できていないんですね。だから何度もこの短い小説を私は読みます。気分が落ち込んだ時なんかに読みます。すると、この物語に出てくる男のような心持ちを一瞬ですが感じるんです。男が「そうして刹那に一切を了解した」と表現した何らかの概念のしっぽみたいなものに、自分もすこしだけ触れたような気がして、救われるんです。だから何度も読むんですね。それが人が小説を読む理由なんだろうな、と思います。