天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

世に無駄はない。世を無駄にするものがいるだけだ

 

文庫版 書楼弔堂 破暁 (集英社文庫)

文庫版 書楼弔堂 破暁 (集英社文庫)

 

人はなぜ本を読むのか?その考え方は人それぞれかと思いますが、今回ご紹介する本の中で提示されている考え方は衝撃的です。なんと「本は墓のようなもの」だそうです。それだけ聞くとなんじゃらほい?という感じなので、なぜ本が墓なのか?という、かなり抽象化された言葉の意味を、この本の言葉を再現しながら、自分なりにまとめてみたいと思います。

まず本を読む目的を「知見」が欲しいから、ということであれば、借りて読もうが、立ち読みしようが同じこと。でも「本はインフォーメーション」ではない。著者が書き記したその瞬間の思考であり感情という目に見えない「何か」を「言葉という記号に変換」して封じ込めたものが本である。

その瞬間の思考であり感情というものはまるで死を定められた人の生命のようにいつかは消え行くことが定まっているもの。つまりその消え行く瞬間を納めた物体が「本」というもの。だから「本は墓のようなもの」という見立てが出来上がる。

そして墓はただの石塊であり、その下に納められているのはただの骨片。その石塊や骨片に「何か」を見出すのは墓に参る人。同様に本は内容に価値があるのではなく、読むという行いによって、読む人の中に「何か」が立ち上がる、そちらの方に価値がある。文字という呪符を詠み、言葉という呪文を詠むことで、読んだ人の裡に、読んだ人だけの現世が幽霊として立ち上がる。それが本だ。

その本を読むことによって立ち上がる「幻の世界」というのは、真実の世界ではないかもしれないけれど、読んだその人だけが得た「世界」であることは間違いない。だから人はその「世界」を懐に入れておきたくて、借りるでもなく、立ち読みで済ませるのでもなく、本を手にいれる。

本が墓であり読んだことで立ち上がる「何か」が、大切な自分だけの世界という、目に見えない幽霊のようなものであるのなら、やはり「自分の大切な人の位牌くらいは持っていたい」と思うのと同様に、その本を手放すことはできなくなる。

もしもそのように大切に大切に思える本に一冊でも出会えることが出来ればその人は幸せである。本当に大切な本は現世の一生を生きるのと同じ程の別の生を与えてくれる。だから人はそんな本に巡り合うまで本を探し続ける。

というような考え方をもつ明治時代の本屋店主が、生きることに迷って、その店に立ち寄った客に、一冊の本を紹介する、というのがこの小説の大枠です。この作品、ストーリーや設定自体も本好きにはニヤリとすること多発(若き日の泉鏡花が出てきたり)の面白本ではありますが、やっぱり最初に書きましたとおり「本は墓のようなもの」という言葉が忘れられません。

そんな自分だけの本に巡り合いたくて自分も途方もない時間を使って、日々本を読んでるんだなぁと、気づかせてもらえました。そしてその今まで費やした時間も無駄ではないのかも、という慰めももえらたような気もしました。京極さんって皮肉屋ですが、優しいんですよね、深いところで。こんな言葉も書いてあります。
「世に無駄はない。世を無駄にするものがいるだけだ」
これほど厳しくて優しい言葉はなかなかないですね