天然誤読生活

誤読とそら耳を恐れない書評と音楽レビューとトンデモ理論を書き散らすハートに火をつけて(くれるかもしれない)ブログです。

忘れられる権利を主張しなければいけない時代に人はどう生きるか?

 

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

 

皆さんはラブレターを書いたことがありますか?

交換日記なんてものもありましたね(笑)
もしも押し入れの奥から出てきたら、
読みかえしたいですか?
子どもが読みたいと言ったら許可しますか(笑)

今コミュニケーションって、かなりの部分がデジタル化されてきましたよね。
集まってるのに、スマホの画面を見ながらの、会話になっていたり
直接会話をしないで、ラインでやり取りしたりとか。
それを良い悪いというのは、一言で言えるようなことではないかもしれません。

だけど凄いなあと思うのは、中学生の子供たちが
ラブレターなり交換日記なりを、ネットを通してやるってことは
その記録が完全に残されていくってことですよね。
何十年か経ったあとでも、その時の書き込みが、そのまま保存されている。
60歳になった時、15歳で初めて付き合った相手との、会話を読めたりする。
出会いから別れまでのあいだの思いが言葉や一部動画なんかとしても・・・・。

記憶って自分に都合の良い様に変化していくはずですよね。
ちょっと美化したり、都合の悪い部分は切り捨てたり・・・・。
だけどデジタル化された記憶は、変えることが出来ませんね。
「人間は忘れることができるから生きていける」なんて言葉があります。
しかし問題なのは記憶というのは、
幸せなものだけではないということですね。

忘れたい悲しい記憶、忘れてもらいたい罪深い過去の過ち、
すべてがそのままの姿で保存されていきます。
「人の噂も75日」ということわざは、近いうちに死語になるかもしれません。
今やネット上での「忘れられる権利」を裁判で主張する時代ですからね。

今回読んだカズオ・イシグロさんの【忘れられた巨人】は
記憶をめぐる物語でした。

舞台はアーサー王の死後、間もない5.6世紀くらいのイギリス。
ブリトン人とサクソン人という違う人種が、なんとか均衡を保って生活しています。
リアルな歴史小説ではありません。
森に住む鬼が時に子どもをさらい、山には龍(ドラゴン)が潜み、
人々を恐れさせているという、ファンタジー的な世界観の小説です。

この世界ではいつの頃からか、誰もが忘れっぽくなっています。
過去を振り返ろうとすると、まるで霧の中に迷い込んだような気分になるのです。
個人差はあり、2,3日前の記憶がない人もいれば、10分前の事を忘れる人もいる。
一部の人以外は、過去の出来事を憶えていません。
ほとんどの人にとって「過去のない世界」なのです。

そんな中、老夫婦のアクセルとベアトリスは離れて暮らす息子を訪ね旅に出ました。
途中で甲冑を着た老騎士や、謎の戦士、悪鬼に噛みつかれた少年などと出会います。
老夫婦は記憶が無くなることの、秘密を知ることになり、原因を断つために行動することになります。

しかし記憶を取り戻すというのは果たして幸せなことなのでしょうか。
以下の引用は記憶が失われていく秘密を語る神父とベアトリスとの会話です。

「二人で分かち合っていた時を思い出しだいのです。それを奪われたままでいるのは、夜中に泥棒に入られ、大切な宝を盗まれたのと同じです」
「しかし、霧はすべての記憶を覆い隠します。よい記憶だけでなく、悪い記憶もです。そうではありませんか、ご婦人」
「悪い記憶も取り戻します。仮にそれで泣いたり、怒りで身が震えたりしてもです。人生を分かち合うというのはそういうことではないでしょうか」p204

 

思ったのはその決意というか勇気をもてる人って、どの程度いるのだろうかということです。
もしも幸せに暮らしていたとしたら、忘れていたことを思い出すべきでしょうか。
それとも幸せな霧の中にいるべきでしょうか。
動物は過去も未来もなくその瞬間のみを生きていると言います。
ということは記憶とは、人間そのものかもしれません。
もしも「過去のない世界」で生きていたとしたら
自分はどちらを選ぶのか?
その決断は周りの人たちにも大きく影響してきますしね。

ちなみに9.11が、この作品の発想の元だったと作家本人も答えています。
イラク戦争パレスチナ問題、イスラム国の事も浮かんできます。
負の記憶の連鎖。それも記憶の形の一つですね。
こんな会話も印象も残っています。

「尊敬したくなるブリトン人も、愛したくなるブリトン人もいる。それは痛いほどよくわかっている。だが、そういう個人的な感情よりずっと大きなことが、今差し迫っている。わが同胞を殺戮したのはアーサー王配下のブリトン人だ。君の母やわたしの母を連れ去ったのもブリトン人だ。ブリトン人の血が流れるすべての男と女と子どもを憎まねばならない。それは義務だ。だから約束してくれ。もし、技の伝授を終える前にわたしが倒れても、君は心の中でこの憎しみを育て続ける。中略・・そう約束してくるかな、エドウィン。」p313

固有名詞を変えればそのまま世界のどこかで交わされている言葉のようです。
いっそうのことすべての負の記憶を消してしまえば良いのでしょうか?

忘れるから許せるし、許してもらっているという事は間違いなくありますね。
しかしデジタル化され、すべての記憶が、完全に保存されていく現代。
私たちはすでに「忘れられない世界」を生き始めているのかもしれないですね。
果たしてその世界が幸せなのか?

ちょっと重い話になってしまいましが、
作品のラストシーンの解釈は、人それぞれ違いそうですが
自分としては老夫婦の旅立ちに「薄っぺらじゃない希望」を
感じたということは最後に付け加えておきます。
忘れられそうにない「記憶」に残る一冊でした。

長文ここまで読んでいただきありがとうございました。
2015/09/06